越前・勝山城(かつやま-じょう)は、福井県勝山市にある梯郭式平城です。
1576年に、柴田勝家が北の庄に入り、北ノ庄城の築城を開始します。
そのあと、一向一揆を撲滅しますが、柴田勝家の一族である柴田勝安(柴田勝政)が、1580年になって、新たに勝山に築いたのが、勝山城となります。
柴田勝政
柴田勝政(しばた-かつまさ)は、犬山城主・佐久間盛次の3男(または次男)で、1557年生まれですが、母柴田勝家の姉(または妹)となります。
武勇に優れた青年だったようで、加賀の一向一揆平定で武功を挙げた為、柴田勝家が気に入って養子にもらい受けました。
正室は、諏訪・高島城主にもなった日根野高吉の妹。(美濃・本田城主である日根野弘就の娘)
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しかし、すでに柴田勝家の養子になっていた丸岡城主・柴田勝豊と仲が悪く、常に対立していたと言います。
そのため、1583年の賤ヶ岳の戦いの前に、長浜城主となっていた柴田勝豊の裏切りに繋がったとも考えられています。
柴田勝政は、もちろん賤ケ岳で奮戦しましたが、撤退している途中に、羽柴秀吉の小姓・脇坂安治に討たれたとされています。
しかし、遺骸が収容された記録が無い事から、生存説があり、のちに羽柴秀吉から許されると、金森長近の家臣になったとも、四国に落ち延びたとも言われています。
菩提寺は福井県勝山市の義宣寺です。
勝山では、農民の夫役を免除したり、用水路を設置するなど善政を敷いたことから、感謝していた領民が供養していた法要を営んだと言われていて、位牌も現存すると言う事です。
柴田勝政の子としては、1579年に柴田勝重が誕生しており、柴田勝家がお市の方と自刃するまえに、愛用の「兜」を柴田勝政の遺児・柴田勝重(4歳)に与え、母の実家である日根野高吉の元へ逃れさせたとされています。
柴田勝重は徳川家康の家臣となって、関ケ原の戦いにて初陣を飾っています。
ちなみに、その柴田勝家が愛用していた兜は、東京の勝淵神社に「柴田勝家の兜塚」として史跡になっています。
なお、 信長公記によると、勝山城主は原長頼と記載されています。
原長頼
原長頼(はら-ながより)は、織田信長に仕えて、、美濃・花木城(中野城)主となっていました。
そして、一向一揆の平定で武功があったようですが、原勝胤(はら-かつたね)とも書きます。
通称は原彦二郎で、別に原房親、原政茂、原正則(原彦次郎正則)、など色々と名前があります。
同じく一向一揆の鎮圧に貢献した「府中三人衆」は越前・府中城の前田利家、小丸城の佐々成政、龍門寺城の不破光治がそれぞれ約3万石となった訳ですして、同じように金森長近には越前・大野郡のうち3万石が与えられ、亥山城に入りましたが、のち越前・大野城を築きます。
その大野郡の残り2万石が、1575年に信長から原長頼(原政茂)に与えられて、柴田勝家軍団に属し、原長頼は勝山城城主になったとあります。
これが正しければ、柴田勝政が1580年に越前・勝山城主になった際にでも、原長頼は領地替えがあったのかも知れません。
なお、原長頼は、1578年に荒木村重の謀反の際に軍功を挙げ、1579年には織田信長の命令で、荒木一族の処刑を担当した功績から、加増転封になってとも推定できます。
ただし、原長頼は、1583年の賤ケ岳の戦いでも、柴田勢の先鋒となっていますので、越前にいたのは間違えなさそうです。
柴田勢が総崩れとなると、敗走時には殿(しんがり)を務めました。
しかし、羽柴秀吉に降伏すると、徳山秀現と共に前田利家の傘下となって、天正12年(1584年)には能登・末森城の戦いでも輝かしい軍功を挙げています。
天正13年(1585年)になると、豊臣秀吉の直臣となって、伊勢に3万石を与えられました。
天正18年(1590年)の小田原攻めのあと、三河に移封され、慶長3年(1598年)には美濃・太田山城に移っています。
1600年、関ケ原の戦いの際には石田三成に味方して、福島高晴の伊勢・長島城を兵800にて攻めています。
そして、伊勢から尾張の清洲城攻めをするよう進言し、毛利秀元の賛成を得ますが、石田三成らの反対で清洲城攻めは実現しませんでした。
関ヶ原の本戦の際には、向かっている途中で西軍の敗報を聞き、逃れると10月13日に自害して果てました。享年57。
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子の原彦作は、豊後・臼杵藩主の稲葉典通に仕えて、曽根城主にもなっていたことがあるようですが、大坂の陣の際に、大阪城の豊臣秀頼に加わろうとします。
しかし、発覚したため、処刑されたと言います。
その後の勝山城
関ケ原の戦いのあと、福井城に結城秀康が入ると、勝山城もその領地となります。
1624年に、松平直基が3万石となって越前勝山城に入り、勝山藩が立藩しました。
そのあと松平直良が入りますが、正保元年(1644年)に松平直良が越前・大野城に5万石で加増転封となったため、勝山城は廃城となります。
その後、福井藩預かりの後、貞享3年(1686年)からは幕府の天領となりました。
しかし、1691年に、小笠原貞信が2万2000石にて、勝山藩主となり赴任しています。
以後、明治維新まで小笠原家8代が治めました。
勝山城跡は、現在の勝山市役所付近で、市役所と公民館があるあたりが本丸跡となります。
本丸には天守台がありましたが、昭和40年に破壊されて市民会館が建設されました。
ただし、天守台は1826年に設置されたもので、財政難から天守の建造までは行われなかったようです。
勝山城の建造物としては、講堂が神明神社社務所、演武場が布市の道場、表門、土蔵が今井家表門・土蔵として移築され現存しています。
勝山城の場所ですが、石碑があるところを当方のオリジナル地図にてわかるようにしてあります。
勝山城博物館
ほど近いところですので、勝山城跡にある訳ではありませんが、勝山城博物館の建物は姫路城をモデルとしして5層6階の大天守と、大変立派な建物になっています。
日本全国の復元・模擬天守も含めて、日本一の高さを誇る57.8mであり、小天守もあり壮観です。
内部は博物館で、諸大名の甲冑、刀剣、鉄砲、弓矢、馬具、衣服、印籠などが展示されているそうですが、訪問時は定休日で、外から写真だけ撮影させて頂きました。
勝山城博物館の住所は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺85-26-1。
開館時間(営業時間)は、朝9:30分~16:30
休館日(定休日)は毎週水曜日と年末の12月28日~12月31日となります。
アクセスは、JR福井駅から、えちぜん鉄道の勝山永平寺線で勝山駅下車。
市内循環バス「ぐるりん南部方面」「平泉寺・猪野瀬予約便」「恐竜バスダイナゴン」にて、「勝山城博物館」バス停下車し、徒歩3分。
勝山駅からタクシーの場合には10分となります。
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