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多聞山城(多聞城) 最先端で豪華だった戦国時代の城

多聞山城(多聞城)

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多聞山城(多聞城)とは

多聞山城(たもんやま-じょう)は、東大寺からもほど近い奈良県奈良市法蓮町にある平山城で、多聞城と書く場合も多いです。
眉間寺山(佐保山)と言う標高115m、比高30mほどの小高い丘にありますが、現在は奈良市立若草中学校が建っています。
城が築かれた際に「多聞天」が祀られたことから多聞山城と呼ばれるようになったようです。
筒井城筒井順慶を追い、平群谷の椿井城大和・西宮城などを焼き、奈良の最大権力者である興福寺を1560年に破った松永久秀が、幼児の筒井藤勝(筒井順慶)らを追い払い、大和統一の象徴として築きました。

完成した城郭は、石垣をふんだんに使い、分厚い土壁、そして、建物は茅葺ではなく、瓦葺の屋根を用いた建物など、絢爛豪華な造りで、西日本随一の城郭になったそうです。
東大寺や興福寺と言った宗教勢力よりも、権威性があることを示す必要があり、豪華な縄張りになった模様です。
更に、松永久秀は山城である信貴山城も改修し、奈良統治を確たるものにしました。
1564年、河内・飯盛山城三好長慶が病死すると、三好三人衆(三好長逸三好宗渭岩成友通)と松永久秀が、三好家を支えるようになります。
しかし、三好三人衆と、松永久秀は対立するようになり、1566年、筒井城の戦いでは、筒井順慶に筒井城を奪還されました。


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1567年には、東大寺大仏殿の戦いとなって、三好三人衆、筒井順慶、池田勝正篠原長房ら多聞山城に迫ります。
三好三人衆ら28000の軍勢は、6ヶ月間も奈良・東大寺に駐屯したことから、ついに、松永久秀らは奇襲攻撃を行います。
東大寺大仏殿など主要堂塔は、この合戦で焼失しました。
東大寺の大仏が修復されたのは、約120年後の江戸時代1691年と言う事になりますが、その東大寺の大仏が現在のものです。
多聞山城の戦いでは勝利した松永久秀でしたが、1568年、信貴山城の戦いでは信貴山城を三好康長に奪われました。
そして、織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、松永久秀は芥川山城で織田信長に拝謁し、服属を誓います。
そのため、織田勢の2万の援軍を得て、信貴山城を奪還するのに成功しました。

1571年、まずは、しぶとい筒井順慶を攻略しようとしましたが、辰市城の戦いにて大敗し、筒井城も筒井順慶に奪回されました。
こうして、佐久間信盛明智光秀の仲介で、松永氏と筒井氏は一時的に和睦しました。
その結果、松永久秀は筒井順慶と同格となってしまったため、甲斐の武田信玄と盟約を結び、織田信長に対して反旗を翻して、信貴山城に入ります。
足利義昭も槙島城の戦いで敗れて毛利家を頼り、若江城の戦いで三好義継が滅ぼされると、佐久間信盛に包囲されていた松永久秀は再び織田信長に帰服しました。
降伏条件として多聞山城を明け渡すことになり、織田家の福富秀勝毛利長秀が受け取りの奉行を務めています。

こうして織田家の支配下となった多聞山城には、最初、明智光秀の与力だった山岡景佐が入りました。
1574年、明智光秀が美濃へ出陣すると、そのあと細川藤孝、続いて柴田勝家が入り、興福寺や春日大社を保護しています。
そして、織田信長が自ら多聞山城に入城して検分も行いました。


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城郭にご興味がある方は「多聞櫓」(たもんやぐら)と言う、櫓の名前を耳にしたことがあると存じます。
これは、松永久秀が長屋形状の櫓として4階建ての高層建築を行った訳ですが、その櫓は長屋式になっており、とても豪華に見えたようで多聞櫓と呼ばれるようになりました。
また、御殿の内部は彫刻・壁画・金地で飾られた豪華絢爛の様相だったことが、宣教師ルイス・アルメイダの書簡からも分かります。
この多聞櫓や城内を見た織田信長は、4年後に築城する安土城では「天守」として、更に豪華な独特の建築を確立させた訳です。
多聞櫓と呼ばれる形式は、その後、彦根城、福岡城、大坂城、岸和田城篠山城広島城江戸城高知城山形城など、紹介しきれないですが、たくさんの築城時に採用されました。

1575年、塙直政が大和守護に任じられると、多聞山城主となりました。
しかし、1576年、石山本願寺との戦いでの「天王寺砦の戦い」にて、鉄砲隊に討たれます。
その後、大和守護には、筒井順慶が任命されました。
この時、織田信長は多聞城を含めた、奈良の多くの城の破却を命じており、多聞山城の建造物は村井貞勝の指揮にて京都に運ばれ旧・二条城に移築されたと言います。
解体時に高矢倉と呼ばれた四階櫓があったことがわかっています。
また、石垣の多くは、筒井城、そして大和・郡山城にて再利用されました。

筒井順慶が大和の支配者になったことなどに不満を抱いた松永久秀(松永弾正)は、再び織田家に謀反を起こし、信貴山城に籠ります。
そして、1577年、織田信忠らが信貴山城を攻撃し、松永久秀は自害することになりました。

破却された城ですので、多聞山城の遺構はほとんどなく、中学校の正門を入った所に「多聞山城址」の石碑があるくらいです。

多聞山城

多聞山城の石碑は、中学校の校門から見えますが、敷地内ですので、もちろん、授業・生徒さん優先ですし、最近、すぐに不審者だと通報される世の中ですので、勝手に入ることは自粛するしか無さそうです。
また、道路は行き止まりで、方向転換するには、中学校の敷地に入るしかないので、クルマでの訪問も困難です。

多聞山城(多聞城)は、大和(奈良)にとっては、歴史的にも大変重要な城跡ですので、ほんの少しでも、立入りできる小さな公園と有料駐車場が、学校の余っている敷地にできるとうれしいのですが・・・。
駐車場は、無料ですと、城訪問と関係ない利用者も出てしまい、止められないことがあるため、有料で構わないのですが、いかんせん、奈良、特にこの東大寺のあたりは、観光資源にはまったく困りません。
四階櫓が外観復元でもされると、完璧ですが実現することは無いでしょうし、寂しい限りですが、多聞山城の重要性は非常に薄れている様相に感じます。


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交通アクセス

多聞山城への交通アクセス・行き方ですが、近鉄奈良線・近鉄奈良駅から1.5km、徒歩20分くらいです。
JR奈良駅からは遠いですので、法蓮仲町バス停下車の徒歩10分となります。
駐車場はありませんので、東大寺の西側辺りにあるコインパーキングを利用するしかありませんが、道路は狭いところもありますので、歩行者などご注意願います。
当方が利用したコインパーキングは、、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。

なお、多聞山城の移築城門が奈良県生駒郡安堵町の環濠集落(中家住宅)の西脇にある、旧石田家住宅の門として移築されています。
豆福堂石田邸ギャラリー「多聞庵」とも呼ぶようです。

聞山城の移築城門

ただし、多聞山城から16kmも離れた南にあります。
でも、多聞城の唯一と言って良い遺構・建物ですので、行って参りました。
ただ、環濠集落はどこもそうなのですが、道路がとても狭い、古い集落です。
うっかり普通車で進入して行くと、大変な事になりかねませんので、ご注意願います。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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