大阪府

岸和田城 数々の合戦を経験した続日本100名城

岸和田城

岸和田城(きしわだ-じょう)は、大阪府岸和田市岸城町にある輪郭式平城ですが、戦国時代には海に面していたことから海城とも言えます。
別名は千亀利城(ちきりじょう)、岸ノ和田城、滕城、蟄亀利城とも言い、続日本100名城にも選出されました。
公園として整備されており、本丸・二ノ丸を囲む水堀も、良く保存されています。





本丸の中には庭園があり、諸葛孔明の八陣法をモチーフとした石庭は、国の名勝に指定されています。
ただし、この岸和田城庭園は、昭和28年に重森三玲(しげもり-みれい)氏が作庭したもので、戦国時代からあった訳ではありません。

岸和田城庭園

鎌倉時代が終わった頃の1334年、楠木正成が摂津国・河内国・和泉国の守護に任ぜられます。
このとき、後醍醐天皇に仕えていた楠木正成の弟の子である和田高家(和田新兵衛高家)を和泉に派遣して築かれたのが、最初の岸和田城になります。
近世の城と場所が異なるため、岸和田古城と呼んで区分しますが、南海本線より南側の岸和田駅に近い古和田にあります。
なお、この辺りはその昔、沼地だったようで「岸」と呼ばれていました。
その岸に和田さんが入ったことで、地名が「岸和田」へと変化したと考えられています。
ただし、この岸の城は、もっと昔からあった可能性も否定はできず、最初の築城は不明です。

和泉国の守護が楠木正成から山名氏清に代わると、のち現在の場所に岸和田城が築城されたと推測致します。

岸和田城

1408年には、室町幕府管領・細川家の一族である細川頼長と細川基之が和泉の守護職を世襲を始め、共同で守護を担いました。

岸和田城

1495年、両守護家は管領・細川政元との戦いにて大敗し、15000年には、畠山尚順が攻めて岸和田城を落城させています。

岸和田城

ただし。管領・細川政元の重臣・赤沢朝経が岸和田城を奪い返し、細川高国の政権下においては、細川高基、細川晴宣が和泉守護となって、和泉守護代である松浦盛(まつうら-さこう)、松浦守の親子と岸和田の統治をしました。

岸和田城

1548年、細川晴元とその重臣・三好長慶が対立すると、松浦守は、和泉上守護・細川晴貞から寝返って三好長慶に味方しています。
しかし、松浦守は1557年頃には死去したようで、松浦家の跡を継いだのは、十河一存の子である松浦万満(妻裏孫八郎)でした。

岸和田城

ただし、まだ幼少だったことから、三好勢は岸和田城を占拠して後見しています。
こうして、1558年には、三好長慶の実弟・三好実休、十河一存、安宅冬康と、そうそうたるメンバーが岸和田城に入りました。

岸和田城

三好実休は大規模な改修を行い、十河一存、安宅冬康ら2800にて防備を固めています。

岸和田城

1561年、岸和田城の十河一存が急死し、1562年には、高屋城主・畠山高政との久米田の戦いにて三好実休が討死すると、安宅冬康は岸和田城から退去したため、摂津守護・細川刑部(細川晴貞)が岸和田城主に復帰しています。

岸和田城

しかし、教興寺の戦いにて畠山高政が大敗したため、再び三好長慶が岸和田城を奪回しますが、1564年、三好長慶が病死すると、三好三人衆と松永久秀が権力争いとなりました。
三好勢の松浦孫八郎(松浦信輝)は、岸和田城を守備しましたが、1571年頃には本来の松浦家の当主である松浦虎(松浦孫五郎)が、根来寺などの支援を受けたようで城主に返り咲いた模様です。

岸和田城

1575年には松浦孫八郎(松浦信輝、松浦万満、松浦光、松浦肥前守)も没しましたが、養子に迎えていたと推測される、寺田又右衛門の弟・松浦宗清(松浦安大夫)が暗殺したともされているようです。
こうして、松浦宗清(まつうら-むねきよ)が岸和田城主となりましたが、この頃には織田信長の勢力が伸びおり、織田家に臣従し佐久間信盛の与力となりました。
そのため、松浦宗清は兄・寺田生家(てらだ-なりいえ)と共に、第1次・木津川口の戦いにも織田勢として参陣して大敗を喫しています。

岸和田城

1580年に佐久間信盛が追放されると、和泉国(半国14万石?)は肥田城の蜂屋頼隆に与えられており岸和田城に入った模様です。
1581年の馬揃えでは、蜂屋頼隆の配下である和泉衆に松浦宗清の名も見受けられますが、どこの城に退去したのかは不明です。
なお、岸和田城には、和泉半国を領した織田信張も居城にしていたようですが、本能寺の変のあと、尾張・小田井城に戻っています。

岸和田城

1582年、本能寺の変の際に、蜂屋頼隆は織田信孝丹羽長秀と行動を共にして、羽柴秀吉の軍勢に合流し、山崎の戦いでは織田信孝の陣に加わっています。
1583年、賤ケ岳の戦いのあと、蜂屋頼隆(はちや-よりたか)は敦賀5万石へ減封となって移りました。

岸和田城

そして、羽柴秀吉は、3万石にて岸和田城に中村一氏を入れて、抵抗していた根来衆雑賀衆、粉河衆などの一揆討伐を命じています。

1584年、正月の元旦早々に岸和田城は攻撃を受けており、その後も、大坂を狙う侵攻などが相次ぎましたが、中村一氏は劣勢ながらも、それらを撃退しています。
特に、小牧・長久手の戦いの留守を狙って根来衆、雑賀衆、粉河衆らが3万により、岸和田城の戦いとなった際には、中村一氏と松浦宗清らは8000にて守り切っています。





1585年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、紀州征伐を開始します。
水軍は小早川隆景、中村一氏、仙石秀久九鬼嘉隆、陸からは豊臣秀次を総大将に、堀秀政筒井順慶長谷川秀一、堀秀政、田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3万で、千石堀、畠中城、積善寺城など根来寺の出城を攻略しました。
すべて陥落すると、大谷左太仁ら根来衆の残党は、紀伊・太田城に籠城したため、羽柴秀長・羽柴秀次・細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛筒井定次宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰らによって、太田城水攻めも行われました。

紀州を平定したあと、豊臣秀吉は小出秀政(こいで ひでまさ)は小出秀政を岸和田城に入れており、1595年には3万石にまで加増を受けています。
そして、岸和田城の天守が造営開始され1597年に完成しました。

岸和田城からの展望

豊臣秀頼が誕生すると、片桐且元らと小出秀政は傅役を務めています。

1600年、関ケ原の戦いの際に小出秀政は、長男・小出吉政(但馬・有子山城主)は石田三成に協力させましたが、先に300にて出陣していた次男・小出秀家は、そのまま徳川家康に付き従う判断をしています。
一方で、小出秀政は大坂城留守居として豊臣秀頼の警護をし、小出吉政はた細川藤孝(細川幽斎)が籠城した丹後・田辺城の攻撃に参加しました。
関ヶ原の戦いのあと、小出秀家は父の岸和田城を接取し、更には四国から来襲した長宗我部盛親の兵船200艘余の上陸を撃退しています。
これらの功を高く評価した徳川家康は、戦後、小出家の所領を安堵し、小出秀政と長男・小出吉政も、お咎めなしとなりました。

岸和田城

なお、松浦宗清は安濃津城の戦いに参加したため、改易・所領没収となり、宮部長煕・岸田忠氏・石川貞清らと共に陸奥・三戸城の南部利直に預けられました。

また、1603年に、小出秀政が病死し、翌年に小出秀政も亡くなると、長男・小出吉政は父の遺領の岸和田城3万石に移り、子の小出吉英が出石城主となっています。
1613年に、小出吉政も死去すると、出石城から小出吉英が岸和田城に入り5万石となり、出石城は弟・小出吉親が城主となりました。

岸和田城

1614年、大坂の陣の際には、大坂城からも近いことから豊臣家から誘いを受けます。
しかし、小出吉英は、書状を受け取らず、本多正純に報告したため、これを聞いた徳川家康は大変喜んだとされます。
大坂冬の陣で、小出家は徳川勢として出陣したため、手薄になった岸和田城には増援として、本多政武、松平信吉、北条氏重らが守備しました。
大坂夏の陣の際には、大野道犬が岸和田城に迫ったため、小出吉英は金森可重、伊東治明らと籠城しています。
樫井の戦いで豊臣勢が敗北したと知った大野道犬が撤退開始すると、小出吉英は城から撃って出て打ち破り、大坂城では数百を斬り、首級107を挙げました。

岸和田城

1619年、小出吉英は5万石で出石城に移封となり、代わりに、丹波・篠山城から松平康重(まつだいら-やすしげ)が岸和田藩主となりました。
松平康重は、複合式層塔型5重5階の天守建てて、総構えの城下町へと整備を行い、6万石となっていますが、重税を課して悪政を行ったとされています。
1632年、伏見城が破却された際には、伏見櫓などが岸和田城に移築されて防御が強化されました。
松平康重が播磨・山崎城へ移ると、1631年、高槻城から岡部宣勝が6万石で入り、以後、岡部家13代の居城となり、明治を迎えています。
岡部宣勝は、異心あり?ともされた徳川頼宣(とくがわ-よりのぶ)の本拠地・和歌山城紀州藩を監視する役割もあったようです。

岸和田城

現在、岸和田城の天守外観は、三層の天守閣と二層の小天守閣の連結式望楼型の外観復興天守になっています。
現在の天守閣の高さは、石垣の高さ約5m、石垣上部から鯱(しゃち)を含めた高さが約22mです。
ただし、戦国時代の天守は複合式望楼型5重5階と規模も大きく、建物の高さは約32mもあったと絵図に記載されています。
江戸時代の天守は1827年に落雷のため消失しました。
残っていた建物も、廃城令の際に、藩主自ら櫓・門など破壊したため、昔からの建造物は残されていません。

春には桜の名所として花見客もたくさん訪れるようですが、お城まつりも4月上旬に開催されるそうです。

岸和田と言いますと「だんじり祭」が有名ですが、江戸時代の中期である1745年に、北町の茶屋新右衛門が岸和田藩主に願い出て始まったのが起源とされます。(諸説あり)





岸和田城への交通アクセス・行き方ですが、南海電気鉄道・南海本線の蛸地蔵駅から徒歩約10分と近いです。
岸和田藩薬園跡が有料駐車場になりますが、駐車料金は高くないです。
今回利用させて頂いた駐車場は、当方のオリジナル地図にてポイントさせて頂きました。

積善寺城 根来衆などが立て籠もった和泉の城跡
紀伊・雑賀城 豊臣勢に雑賀衆が抵抗した拠点と雑賀撃ち
紀伊・太田城 豊臣秀吉による太田城の水攻め
根来寺 荘厳な雰囲気な根来衆の本拠
樫井の戦い(大坂夏の陣) お菊の悲しい運命となった紀州一揆
和歌山城 紀州藩の大城郭で麗しき日本100名城
日本全国のお城マップ・オリジナル地図

 

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攻略難易度
初心者向け
旧国名
和泉
著者コメント
駐車場もあり訪問しやすい名城です。




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