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京都の二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある平城となりますが、別名は旧二条離宮・元離宮二条城とも言います。
現在の二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、江戸時代になってから建造を決めた城となります。
二条城の全体が国の史跡、豪華絢爛な二の丸御殿6棟が国宝、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が国の重要文化財になっており、二の丸御殿庭園は特別名勝に指定されています。
また、日本100名城にも認定されています。
この二条城(にじょうじょう)の歴史について、できる限り詳しくご紹介してみたいと存じます。
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二条城の歴史
1600年、関が原の戦いを制した徳川家康は、天下へ号令するため、朝廷から征夷大将軍の官位を得られるよう考えます。
任官のためには、京都の御所を訪れる必要性がありますが、織田信長が本能寺の変により簡単に横死してしまうなど、京都にて宿泊するには、敵から不意打ちを受けても心配が軽減される防御力も高い「城」が必要となります。
そのため、1601年5月、徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、京の町屋や住民を立ち退きさました。
12月、西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行い(天下普請)、造営総奉行に京都所司代・板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁には中井正清が任じられます。
1602年5月、御殿・天守の造営に着工し、1603年3月に落成。
但し、天守は時間がかかり1606年に完成しました。
1603年2月12日、徳川家康は伏見城にて征夷大将軍への補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城します。
2月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を二条城より発しました。
それに続き、2月27日、二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行います。
1611年、二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において、徳川家康と、大坂城主・豊臣秀頼が会見(二条城会見)。
この時、徳川家康は豊臣秀頼の成長ぶりに驚き、徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したとも言われています。
そして、1614年、大坂冬の陣が勃発しました。
このとき、二条城は大御所(徳川家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍・徳川秀忠の軍勢に続き、徳川家康は二条城から大坂へ軍を進めています。
1615年、大坂夏の陣では、豊臣勢が二条城に火をかけ、混乱の中で徳川家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣・木村宗喜が捕縛されました。
このため吉田織部は切腹、家財没収となっています。
豊臣家滅亡後も、二条城は京都における徳川家の宿舎として活用されており、1619年、徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇への入内する際には、更に二条城を改修しました。
この時の縄張(設計)は、徳川秀忠と築城の名手である藤堂高虎が共に行ったと言います。
1620年6月18日、徳川和子は二条城から長い行列を作って、後水尾天皇のもとへ入内しました。
1624年、徳川家光が3代将軍になると、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まりました。
城域は西に拡張され、天守閣も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築したと言います。
作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じらています。
工事は尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当しました。
1634年には、上洛途中の宿舎として、近江・水口城なども築城されるなど、このように、徳川家は江戸城から京都まで色々と整備を進め、30万の軍勢を率いて、徳川家光は二条城に入っています。
しかし、このあと230年間、二条城に徳川将軍が入城することはなく、1750年には落雷により天守も焼失するなど、使われない二条城は荒れ果てていきました。
幕末になって、公武合体によって14代将軍・徳川家茂の上洛することになると、1862年に荒れ果てていた二条城の改修が行われます。
このとき、二の丸御殿は全面的に修復されました。
そして、1863年、3000の軍勢を率いて、徳川家茂は二条城に入り、孝明天皇に攘夷を約束しました。
ちなみに、このとき、天皇と一橋慶喜らは賀茂神社に参拝しましたが、天皇が公式に御所を出たるのも237年ぶりの異例な事でした。
第二次長州征伐の指揮を執るため、1865年に徳川家茂は再度上洛して二条城に入りますが、すぐに大坂城へ移っています。
しかし、翌年(1866年)に夏に徳川家茂は大坂城にて死去しました。
次の将軍は一橋慶喜と決まり、朝廷からの度重なる説得も受け、1866年12月に、二条城において15代将軍拝命の宣旨を受けました。
1867年9月には、15代将軍・徳川慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移します。
しかし、10月には二条城に諸国の大名を集めて、大政奉還を宣言しました。
二の丸御殿は江戸時代初期の建築で6棟が国宝となっており、内部を有料見学できます。
大政奉還が行われた部屋も見学可能ですが、建物内部は写真撮影禁止です。
御殿の廊下は「うぐいす張り」となっており、歩くと「キュッキュ」と板から音が出る仕組みです。
これは外部侵入者の危険探知の為に設けられたとされており、戦国末期~江戸初期に建築された京都の寺院には良く見られる設計になっています。
なお、横浜の三渓園に、二条城内にあった書院造の建物「聴秋閣」とされる建造物が現存します。
これは徳川家光が春日局に与えた建物で、江戸に移築されていたと言う事になります。
二条城の見学ポイント
二条城の見学時間は、朝8時45分~午後4時で、閉城は午後5時となります。
お休み(休館)は年末年始(12月26日~1月4日)と、毎年12月・1月・7月・8月の毎週火曜日になります。
このように二条城は朝8時45分から入れます。観光客の立場から申し上げますと、出雲大社のように朝6時くらいから開いているとうれしいのですが、京都の有料拝観寺院の多くが9時からでして、仕方ない所です。
朝7時くらいに目がさめて、8時45分までホテルの部屋で待機しました。
なお、靴を脱いで拝観する国宝・二の丸御殿は朝9時から入れます。
入城料金は下記のとおりです。
一般600円
中学生・高校生350円
小学生200円
入場口にはコインロッカーもあります。
二条城への交通アクセスは下記のとおりです。
最寄り駅は、地下鉄東西線の「二条城前駅」となります。
JR京都駅からの場合には、地下鉄烏丸線に乗って「烏丸御池駅」にて地下鉄東西線に乗り換えとなります。
市バスの場合には、9・50・101号系統にて「二条城前」バス停下車となります。
有料駐車場も、二条城の東側のお堀り沿いにあります。
1晩駐車する事もできますよ。
有料駐車場ですが、当方のオリジナル地図にて駐車場の入口がわかるようにしてあります。
二条城の見学所要時間は、庭園をちょっとだけ見て、 国宝・二の丸御殿の内部拝観だけであれば、約35分で可能です。
現在の二条城・本丸御殿は、御所の北にあった旧桂宮邸を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物であり、内部は公開されていないため、今回見学はパス。
なお、本丸御殿やすべての庭園を周ると、90分以上みた方が無難です。
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神泉苑
現在の二条城の水堀よりも南側に神泉苑(しんせんえん)があります。
神泉苑は平安京大内裏に接して造営されていた禁苑(天皇のための庭園)でしたが、徳川家康が二条城を造営した際に、神泉苑の敷地の多くを使った、すなわち、神泉苑の大部分に二条城を築いたと言うことになります。
そのため、二条城の水堀の水源も、神泉苑の湧き水が使用されています。
この国の史跡である、現在の神泉苑(しんせんえん)は、794年、平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)の一部が現存しているものです。
二条城のすぐ南側にあり、伝承では源義経と静御前が出会った場と伝わります。
また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来とも言われています。
現在は池を中心にした庭園が残っているだけとなっています。
神泉苑は無料拝観で、基本的には24時間見学可能です。
ただし、北側(二条城側)の門は、昼間のみ開くようで、その為かガイドブックなどによっては9時~20時などと記載されています。
小生が朝7時に訪れた際には、南側の入口から自由に入れる状態になっておりました。(北側の門は閉まってました。)
上記写真は、神泉苑の「恵方社」で、日本で唯一、その年により社の方角が変わると言う大変珍しいものとなっています。
神泉苑の見学所要時間は15分もあれば充分で、二条城が開く前や、二条城に寄った後に、ちょっと訪れるのには大変都合が良い観光スポットです。
なお、神泉苑から四条大宮駅に向かう途中には、上記写真の二条陣屋(重要文化財)もあったりと、思いがけない京の趣を感じつつ、楽しく歩けます。
神泉苑から四条大宮駅までは徒歩10分でした。
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