高知県

高知城の解説【日本100名城】築城の名手である百々綱家も~高知城の見どころと歴史

高知城

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名称 : 高知城、鷹城
場所 : 土佐国
形態 : 梯郭式平山城
天守 : 独立式望楼型4重6階(現存)
遺構 : 現存天守・門・石垣・御殿・櫓・堀・鐘撞堂
築城年 : 南北朝時代
指定文化財 : 国重要文化財国史跡
駐車場 : あり

高知城とは

高知城(こうちじょう)は、別名を鷹城(たかじょう)とも言う、梯郭式平山城です。
江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門などが現存している、国の史跡でもあり、日本100名城日本の歴史公園100選にも選ばれています。
そんな高知城の歴史と見どころを「写真」をふんだんに使用してご紹介申し上げたいと存じます。

土佐・高知城は、大高坂山(標高44.4m)に築かれているため、長宗我部氏が土佐を支配していた頃には大高坂山城(おおたかさかやまじょう)と呼ばれていました。


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最初の築城は、高知の豪族・大高坂氏とされますが、詳しくはわかっていません。

戦国時代になると、1587年の九州攻めから帰った長宗我部元親が、岡豊城から本拠を移そうと改修を始めます。
しかし、大高坂山城の辺りは、当時「湿地帯」であり、南を流れる鏡川、北の江ノ口川が度々氾濫したことから、1591年には浦戸城を修築して本拠としました。

高知城

1600年、関ケ原の戦いで、長宗我部盛親が西軍・石田三成に協力したため改易・所領没収となると、掛川城主・山内一豊に土佐一国24万2千石が与えられます。

山内一豊の銅像

山内一豊は1601年に浦戸城に入りますが、城下町の整備も手狭と言う事もあり、大高坂山城を大改修することを決意します。

高知城

しかし、湿地帯で難工事が予想されたことから、徳川家康に願い出て京都で蟄居処分となっていた織田秀信の元家老・百々綱家を家臣に加えました。

高知城

この百々綱家は、近江穴太衆を支配していたことから、築城技術に優れていたのです。

百々綱家

百々綱家(どど-つないえ)は、小谷城主・浅井長政の家臣で、1548年頃に生まれたと考えられています。
諱は安信、安行ともあります。
姉川の戦いにて、浅井家が織田信長に敗れると、織田家に臣従します。
この時、佐和山城から北になる、中山道と北国街道の分岐点・摺針峠の関所警護を任されています。

高知城

1582年、本能寺の変にて織田信長が横死すると、以後は羽柴秀吉に従って、山崎の戦いでも戦功を上げました。
そして、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が清洲会議にて織田信長の嫡孫・三法師を立てると、百々綱家が三法師の後見役を命じられ、小牧・長久手の戦い、九州攻めにも参加しました。
1588年3月に、三法師(織田秀信)が岐阜城主となると、百々綱家はの織田秀信の家老となって、約1万1千石を知行しました。

高知城

文禄元年(1592年)、文禄の役では、織田秀信の名代として6000を率いて朝鮮に渡っています。
しかし、転機が訪れます。

高知城

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際、織田秀信は、当初、徳川家康の上杉征伐に加わる意向でしたが、織田家の面目を保つため、派手な軍にすると言う事で出陣するのに時間が掛かっていたところ、石田三成から密書が届くことになります。
戦勝の暁には「美濃・尾張2ヶ国」と言う条件を受けると、百々綱家の進言も聞かず織田秀信は石田三成ら西軍に協力することになりました。
このとき、百々綱家は、京の前田玄以を訪ねて、徳川家康が勝利した場合にも備えたかったようですが、逆に東軍にと説得できなかったことを怒られたようです。

高知城

こうして、織田秀信や百々綱家は、飯沼長資や津田藤左衛門らと2500にて、木曽川沿いで東軍1万8千を迎え撃ちました。
織田勢は奮戦しましたが兵力差もあり、百々綱家が殿軍を務めて岐阜城に退却しています。(米野の戦い)

高知城

その翌日、徳川勢(東軍)から岐阜城は攻撃され、百々綱家は御殿・百曲口を守備して抵抗しました。
しかし、1600年8月23日、残すは本丸のみとなったときに織田秀信は、福島正則池田輝政とも)の降伏勧告を受け入れました。
この頃、西軍の石田三成らは伏見城を攻略中で、充分な援軍を出せなかったのです。

高知城

岐阜13万石は没収され、剃髪した織田秀信は、福島正則らの嘆願で命は助けられますが、高野山へと送られました。
多くの旧臣らは、福島家、池田家や浅野家などに拾われています。
しかし、百々越前守綱家は京都で蟄居を命じられました。

高知城

そこで、高知城を築城したかった山内一豊が、石垣普請の名手・百々綱家の能力に目をつけて、徳川家康に家臣にすることを願い出ると許されたのです。

高知城

1600年8月、百々綱家は6000石の土佐藩士となり、築城総奉行として9月から高知城の築城に尽力しました。
浅井家時代からの縁がある近江坂本の石工集団「穴太衆」の技術力を駆使し、低湿地だった高知城下の城下町の整備、そして高知城の築城を任されました。

高知城

慶長6年(1601年)には、江戸城の天下普請としての石垣修復にも参加しています。
1605年、山内一豊が死去したあとも、引き続き高知城は工事が続けられ、1611年に三の丸も完成すると工事が完了となっています。

高知城

下記は高知城の井戸跡です。

高知城の井戸

慶長14年(1609年)にも、丹波篠山城の天下普請における石垣作りに2000を率いて赴きましたが、心労が重なり百々綱家は病に倒れました。
百々越前守綱家は、京に移って療養しますが、そのかいもなく、1609年12月22日に病死しました。享年63。

高知城

高知の南筆山公園の麓に、百々家の墓地があり、百々綱家の墓もあるようです。
なお、幕末の土佐藩参政・吉田東洋の父・光四郎正清は、百々家の出身で吉田家に養子入りしています。

高知城

高知城の建物は、1727年の大火で大半が焼失したため、現在の天守・櫓・門などは1749年に再建されたものとなります。

高知城

高知城の天守は南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の古い様式です。

高知城

掛川城の天守を模したともされる天守は、小振りとなりましたが、外観は焼失前の姿に復元されたと言われており、天守など15棟が国の重要文化財に指定されています。

高知城

下記は高知城の天守からの展望です。

高知城の天守からの展望

下記は本山城方向ですが、本山城は写真にある山の向こう側(嶺北)でして、戦国時代の本山茂宗(本山清茂)は、よく、あんな高い山を越えて高知平野に進出したものだと感心させられます。

高知城の天守からの展望

下記は朝倉山城方面ですね。

本山茂宗(本山清茂)

交通アクセス

多くの観光客も訪れる高知城へのアクセス・行き方ですが、JR四国・土讃線の「高知駅」から歩くと約25分の距離です。
路面電車(とさでん交通伊野線)を利用した場合には、高知城前停留場にて下車して徒歩約5分となります。

高知城

駐車場は、高知公園駐車場(年中無休・7時30分~18時30分)が65台、県庁前地下駐車場(8時~22時)222台となっていますが、いずれも有料です。
下記の地図ポイント地点は、高知公園駐車場の入口となります。
受付前で係員さんから「クリアファイル」を渡されて、その番号の駐車スペースにクルマを止めるシステムです。

高知城の二の丸までは無料で24時間立入り可能ですので、朝は少し早く行って散策しながら9時に本丸に入ると言う方法も取れます。
高知城天守・ 懐徳館(本丸御殿)は有料拝観となり、朝は9時~夕方16時30分までとなります。(年末に休館あり)

高知城

なお、高知城の見学・観光所要時間は、約60分といったところです。

高知城のマップ

高知城から近いところに「ひろめ市場」があります。
市場と言うよりは、小さな飲食店がたくさん集まったところで、名店の「フードコート」のようになっており、おいしい食べ物が食べられますので、昼食だけでなく夕食にもお勧めです。


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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