奈良県

大和・西宮城 島氏の本拠地で島左近の誕生地か

大和・西宮城




大和・西宮城(にしのみや-じょう)は、奈良県生駒郡平群町西宮1丁目にある丘城(小山)で、標高92m、比高は30mほどになります。
島氏(嶋氏)の本拠(屋敷跡)として知られます。
島氏の出自は不詳ですが、鎌倉時代末期に大和国平群谷を本拠地とし、奈良・興福寺の一乗院に属した国民となりました。

奈良の興福寺(こうふくじ)は、藤原鎌足ら藤原氏の氏寺(祭祀儀礼の場)です。
そのため、平安時代には大和国にある荘園のほとんどを領し、事実上の大和の国主になっていました。





そして、一乗院と大乗院が門跡寺院として栄え、戦国時代に入っても、大和の武士や僧兵を勢力下に納めており、室町幕府も大和にだけは守護や守護大名を置くことがでずにいました。
その大和の2大権力である一乗院と大乗院に属した国人を「衆徒」と「国民」と更に分けて呼びました。
本来であれば衆徒(しゅうと)は、寺の運営にあたる僧侶と言う事になりますが、大和(奈良)だけはちょっと意味合いが違ってきます。
興福寺の運営にあたる有力国人らを「衆徒」とし、春日社の神人(国人)らを「国民」として呼ぶことが多いようです。
例えば重要なポストに国民はなれませんでしたので、簡単な話、衆徒のほうが身分が高いと言えます。
戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し、大和四家と言われる衆徒だった筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏が頭角を現しました。

大和・西宮城

1460年には、畠山義就が「島城」を攻撃したとあり、この城が大和・西宮城か、近くの椿井城ではないかと考えられています。
このとく、筒井城の筒井順永が援軍を出したため畠山勢は撤退しました。

その後、島豊前守が椿井氏を攻撃すると椿井城を改修して本拠地としたようで、筒井順慶の重臣になっています。

幼い筒井順慶を、筒井一族の筒井順政、福住宗職・順弘父子、箸尾高春、井戸良弘、そして重臣である松倉右近、島左近らが盛り立てました。
松倉右近と島左近は、筒井家の「右近・左近」と称される勇将です。
この名将・島左近(島清興)が、のち石田三成に仕えます。
嶋左近の時代には、平群(へぐり)を中心に島氏は10000石を領していたようです。
島左近の妻は、北庵法印の娘・茶々です、1558年に島信勝が生まれています。





1559年、松永久秀が大和を手に入れると、1565年に攻撃を受け、島左近は椿井城と西宮城にて松永勢と戦いました。

1582年、明智光秀本能寺の変にて織田信長を横死させ、1584年、筒井順慶が病死して、養子・筒井定次が家督を継ぎます。
そして、筒井氏は大和から伊賀に国替となり伊賀・上野城へ移りますが、島左近も同行したようですので、大和・西宮城は使われなくなった模様です。

しかし、中坊秀祐の領地の農民と、島左近の領地の農民が水の権利の争いとなり、筒井定次は中坊秀祐に有利な裁定を下します。
そのため、対立した島清興は追放されたとも、自ら筒井家を見限ったとも言われています。
蒲生氏郷に仕えて小田原攻めにも出陣しましたが、1591年には、佐和山城主・石田三成の配下に、島左近の長見受けられます。

大和・西宮城

大和・西宮城跡は、平群中央公園として整備されており、西宮古墳があります。
その古墳が城跡の西端となりますので、曲輪のひとつとして利用されていました。
主郭があったのはローラー滑り台のある高台になります。

公園中央には大きな池がありますが、その向こう側(北側)の丘陵が下垣内城です。





大和・西宮城への交通アクセス・行き方ですが、近鉄生駒線・竜田川駅から徒歩約10分となります。
公園の入口がわかりにくいので、スマホで地図を確認すると良いです。。
車の場合、平群中央公園の無料駐車場が利用できますが、これも場所が分かりにくいので、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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