石川県

富木城と木尾嶽城 福富秀勝とは

富木城

富木城(とぎ-じょう)  は石川県羽咋郡志賀町八幡にあり、富来城、岡野城とも言う能登の丘城です。
標高は22m、比高は17mになります。
最初の築城などは全くわかっていませんが、戦国時代には岡野氏がおさめていたようです。

上杉謙信が1576年に能登に侵攻した際に落城したようで、その後、上杉家の藍浦長門が富木城に入りました。
藍浦長門(あいうら-ながと)は、七尾城の戦いにて上杉謙信が春日山城に戻ったあとも守備をしましたが、ここは、織田家との最前線です。





上杉謙信の死後、1577年5月に、長続連や織田勢・誉田弾正が反撃に出て、藍浦長門は自刃しました

その後、織田信長は能登に4名を派遣しています。
管屋長頼は七尾城。
前田利家能登・菅原城
長連龍には福水館。
そして、福富行清がここ、富木城と言う事になりますので、かなり重要視されていた戦略拠点であったことが伺えます。

富木城

ただ、福富行清と言う織田家の武将ですが、一般的には福富秀勝(ふくずみ-ひでかつ)と言う名前で知られていますが、能登では福富行清と出てきます。
この頃の織田信長の側近である奉行は、菅屋長頼・堀秀政長谷川秀一・矢部家定、そして福富秀勝です。

富木城

七尾城に入った奉行の管屋長頼と同じく福富行清も抜擢されて、能登の戦後処理に当たったようです。
能登における織田家の統治を確実にしたのち、前田利家に任せることになり、福富行清と管屋長頼は京に戻りました。

福富行清(福富平左衛門行清)は、規模が小さかった富木城ではなく、東側にある木尾嶽城も整備したと推測致します。
と言うより、木尾嶽城の方が古くから使われていたようですので、富木城をあとから築城したとも考えられます。

木尾嶽城

この頃の織田信長の側近である奉行は、菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一・矢部家定、そして福富秀勝で、武田勝頼の甲斐攻めにも参じています。
このうち、能登にいた人は、菅屋長頼と福富秀勝は、たまたま京都にいたため、本能寺の変にて、織田信忠と共に命を落としています。

さて、木尾嶽城(きおだけじょう)は、木尾城、城ヶ根城とも言う山城で、標高130m、比高125mほどになります。

木尾嶽城

南北朝時代の1346年に、富来俊行が築いたとされています。
富来俊行や井上俊清・新田貞員・栗沢政景らが木尾嶽に籠城していたところを、北朝の吉見氏頼らの軍勢が押し寄せて落城したとあります。

また、1362年には、富来斎藤次らが吉見氏頼の軍勢に敗れたのち、再び落城しました。

木尾嶽城

室町時代は能登守護・畠山氏の属城となっていたようです。
上杉勢の藍浦長門が守備したのは、こっちかも知れません。

県道23号線と県道51号線の、信号が無い交差点に城碑が建っていました。
県道23号を進んだ先の橋のところから、砂利道の林道が伸びていますので、小型4WDやオフロードバイクなどでしたら、本丸近くまで入れるようですが、やめときました。





櫓台跡からは、富木城や、遠くには日本海まで望めるようです。
以上、この地の古城が木尾嶽城で、新しいのが富木城と言う感じです。
次は、末吉城に向かいました。

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攻略難易度
中級者向け
旧国名
能登
著者コメント
あまり遺構は無いようです。




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