和歌山県

紀伊・虎城山城(古座浦城) 高河原貞盛・高河原家盛

紀伊虎城山城(古座浦城)

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虎城山城(こじょうやま-じょう)は、和歌山県東牟婁郡串本町古座にある標高50mの山城で、別名は古座浦城と言います。
比高は45mほどになります。
最初の築城は戦国時代と言いますが、それより前から砦としての機能はあったものと推測致します。

1581年に、高河原貞盛が虎城山に築城しました。
高河原貞盛(たかがはら-さだもり)は、平清盛の嫡孫・平維盛の子孫とされます。


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平維盛(たいら-の-これもり)は、1184年、源義経らによる一ノ谷の戦いの前後に戦線離脱してから高野山に入って出家し、熊野三山を周ったあと那智にて入水自殺したとも殺害されたとも死に関してはよくわかっていません。
全国各地に落人伝説があります。
この頃、田辺系熊野別当の一族であった高河原氏が匿った際に、平維盛が子を設けたのが高河原光盛だったとされます。
戦国時代には伊勢国司・北畠具教に従っており、新宮城主・堀内氏虎と争っていました。
そのため、1571年、堀内氏虎が虎城山城を攻めましたが、近くの小山隆友らの援軍を得てると反撃して、逆に堀内勢の椎橋新左衛門が城主を務めていた紀伊・佐部城を攻略しています。

1576年、北畠家が織田信長によって滅亡となったあとは、織田家に臣従しました。
石山本願寺攻めなどでは、滝川一益の配下に加わって武功を挙げています。

有岡城の戦いのあと、1579年に摂津国武庫郡守部村に8000石の加増を受け、次男・高河原庄兵衛有盛と高河原助右衛門右京が送られています。
堀内氏善が鎌ヶ峯城の色川盛直を攻めた際には、那智にある紀伊・勝山城主である汐崎重盛らと味方して援軍を出し撃退に貢献しました。
ただし、1580年、再度攻められた紀伊・勝山城は落城し、汐崎重盛は敗死しています。
その後、高河原貞盛は1581年、虎城山に城を築いて、虎城山城に本拠を移したと言う事になります。

紀伊虎城山城(古座浦城)

嫡男・高河原家盛(たかがはら-いえもり)ですが、1585年に豊臣秀吉が紀州征伐を行うと、紀伊国を預かった羽柴秀長に仕えました。
1592年、朝鮮攻めでは、新宮城主・堀内氏善と共に参陣しています。

1600年、関ヶ原の戦いでは、他の紀伊の豪族らとともに石田三成に協力したため、所領没収・改易になっています。
その後は、和歌山城に入った浅野家に、高河原家盛と嫡子・高河原喬盛(たかがはら-たかもり)は仕えています。

1615年、大坂夏の陣では、亀田高綱の配下として参陣し、樫井の戦いにて、高河原喬盛の家臣・上野金右衛門が大坂城方の淡輪六郎兵衛重政を討取っています。
浅野長晟広島城に移封された際には従い、1500石として高河原家は家老を務めました。


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高河原家盛が創建したとされる青原寺から虎城山城の本丸に至ることができるようです。
撮影した写真ですが、早朝であったため、まともに逆光でして、仕方なく絵画チックに撮影してみました。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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