和歌山県

紀伊・安宅本城 熊野水軍を率いた安宅氏の本拠地?

紀伊・安宅本城

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紀伊・安宅本城とは

紀伊・安宅本城(あたぎ-ほんじょう)は、和歌山県西牟婁郡日置川町安宅にある平城です。
日置川と安宅川の合流点にある三角州に館が築かれていましたので、舟も停泊できるようになっていたと推測もできます。
日置川に架かる安宅橋の東詰に案内板があります。
現在は城の内と呼ばれる地区ですが水田に囲まれて、1段高くなった土地に民家があるような場所が、2箇所あります。
良く見ると低いながらも淵は石垣になっています。

紀伊・安宅本城

昔は、氾濫もした低湿地帯だったかも知れません。
しかし、増水時以外の防御は弱かったようで、この周辺の山には、詰の城が築かれていました。
すぐ北側には、紀伊・安宅八幡山城がありますし、西側には紀伊・安宅大野城、南には紀伊・安宅勝山城が見えます。

紀伊・安宅大野城は下記のようにそんなに高くはない丘城で、日置川の対岸標高42mにあります。
安宅氏の執事である大野五兵衛の居城とされます。

紀伊・安宅大野城

南には紀伊・安宅勝山城は、結構な高さの山にあります。

紀伊・安宅勝山城

ただし、山のてっぺんは、紀伊・古武之森城と別の名称になっているようですので、中腹あたりが紀伊・安宅勝山城と推測されます。

紀伊・安宅勝山城

紀伊・安宅本城がいつできたかは不明ですが、一般的には、戦国時代の享禄年間(1528年~1532年)にも安宅河内守が築いたとされています。

安宅氏(あたか-し)は、安宅木とも書きますが、先祖は新羅三郎義光とされます。
新羅三郎義光と申しますと、源頼朝の祖先である八幡太郎・源義家で、佐竹氏から分かれた、常陸・武田氏館の武田義清から武田清光、そして甲斐にて加賀美遠光と続き、その子の小笠原長清の流れだと言います。
甲斐源氏である小笠原長清の子・小笠原長経は、1221年、承久の乱のあと、阿波守護となり、次男の小笠原長房が阿波・岩倉城を本拠としました。
この阿波・小笠原氏からはのちに三好氏などが排出されますが、小笠原長房の子・安宅長久が、紀伊国牟婁郡安宅荘(和歌山県西牟婁郡白浜町安宅)に入り、安宅氏の祖になったと推測致します。

当然、鎌倉時代から屋敷を構えたと推測致しますが、紀伊・安宅本城の近くか、紀伊・安宅本城そのものと考えてよいでしょう。


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南北朝時代に入ると、1350年、足利尊氏の命を受けて、熊野水軍を率いた安宅氏は、淡路島の南にある沼島を根拠とした海賊を退治しました。
このとき、淡路島の洲本城や淡路・由良城に安宅氏は勢力を伸ばしています。
また、南紀では、安宅氏の家臣・北金右衛門の甥とされる福田良左衛門(福田丹左衛門)が紀伊・要害山城(堅田城)に入ったほか、安宅氏は、紀伊・龍松山城の山本氏を圧倒して、紀伊富田駅のほうの紀伊・要害山城(馬谷城)を築いたと言う事になります。

このように、熊野水軍の軍事力を背景に、紀伊水道をまたいで勢力を拡大しました。
ただし、どの系統が安宅氏の嫡流なのかは、もはや検討がつきません。
日置の安宅氏は、跡目争いが絶えず、抗争を繰り広げて弱体化していました。

戦国時代に入ると、三好長慶は、三好元長の3男を、淡路・安宅氏の当主・安宅治興の養子に出すと、安宅冬康と名乗らせて水軍を掌握しました。

そんななか、享禄年間(1528年~1532年)に安宅河内守が紀伊・安宅本城を築いたと言う事になります。

紀伊・安宅本城

1526年、安宅実俊が病没すると、まだ11歳だった安宅安定丸の代わりに、甥の安宅定俊が当主を代行しました。
16歳になったら、安宅安定丸を正式に当主にすると言う約束を守らなかったため、1530年、安宅安定丸と安宅定俊が家督を争いとなります。
安宅安定丸の家老・大野五郎が大将に120が、日置八幡山城に籠った安宅定俊500を攻撃しましたが、安宅安定丸側が負けています。
この時、安宅定俊が下屋敷を攻撃して、安宅安定丸は周参見(和歌山県すさみ町)に逃亡したと言います。
この下屋敷は、安宅本城の一角だったのかも知れません。
再起を図った安宅安定丸は、どうやら、同じ安宅一族出身である阿波の小笠原右近大夫ら援軍を得たようで、反撃に出たため、安宅定俊は敗れて紀伊・安宅勝山城から、標高83mの紀伊・安宅八幡城(下記写真)に逃れました。
そして、包囲されると、妻子らと安宅定俊は自刃したとあります。

紀伊・安宅八幡城

安宅安定丸も早く亡くなったようで、安宅家は弟・安宅光定が継いだようです。
しかし、1562年、教興寺の戦いでは湯川衆としては、湯川直光・目良高湛・野辺光房・玉置直和・貴志光宗・龍神正房・山本忠朝・安宅光定・小山隆光らが畠山勢に加わっています。
安宅光定も、多くの湯川衆と共に討死しました。

その後、子の安宅猶重が継ぎますが、この安宅猶重は、紀伊・安宅本城を築いた安宅河内守と同じ名前です。
しかし、時代が合いません。
安宅河内守猶重は、安宅冬康の孫ともむされますので、養子に入った可能性もあるのではないでしょうか?
この安宅猶重は、1581年、織田信長に降伏すると淡路をはなれて、熊野知原に退き、安宅で亡くなったとあります。
安宅猶重の子・安宅玄蕃充重俊も早く死去したため、安宅春定が安宅川四十余郷を領しました。

安宅春定は、1585年、豊臣秀吉の紀州征伐を受けて降伏し、1800石になっています。
1600年、関ケ原の戦いでは、石田三成に協力して領地を失いました。


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ちなみに、戦国時代に特に織田信長が建造させた、今でいう戦艦の型番として「安宅船」(あたけぶね)と言う大型船があります。

主に九鬼嘉隆が運用しましたが、一説によると、安宅氏の名前から付けられたともされていますので、安宅一族の者が設計・建造に関わったのかも知れません。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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