和歌山県

堀内新宮城(堀内氏屋敷) 新宮の戦国大名・堀内氏善の本拠地

堀内新宮城

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堀内新宮城(ほりうち-しんぐうじょう)は、和歌山県新宮市千穂にある平城で、熊野詣で有名な熊野速玉大社の南側にある全龍寺に堀内新宮城があったとされます。

堀内新宮城は、堀内氏の屋敷跡と言うことで、紀伊・新宮城や、すぐ近くの紀伊新宮周防守屋敷跡と区分するため、堀内新宮城と呼ぶのが通例になっています。

堀内と聞きますと、つい「堀之内」を連想してしまいますが、堀で囲まれていたから堀内と言う事ではなく、戦国時代に新宮を領した「堀内氏」の本拠地だったため、堀内新宮城と言う事になります。
ただし、やはり堀はあったようで、西側に水堀の一部が残っていると言いますが、とにかく道路も狭いので、トップの写真撮影だけに留めさせて頂きました。


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戦国時代の最初の頃は、熊野別当の子孫を称する新宮行栄(新宮周防守行栄)が新宮を治めていました。
1571年頃に、紀伊・新宮周防守屋敷を構えています。
しかし、同じく熊野別当の子孫を称する佐野の和田森城主である堀内氏善が、新宮行栄を屈服させます。
こうして、紀伊・堀内氏屋敷を築いて本拠を移しましたと言う事になります。
堀内氏善の子は、新宮姓を称して新宮行朝と名乗っています。

堀内氏善

堀内氏善(ほりうち-うじよし)は、紀伊・勝山城 廊之坊重盛(汐崎重盛)を攻略するなど熊野三山の観光資源確保に努めましたが、織田信長が伊勢・北畠家を滅ぼすと織田氏に臣従しています。
1582年、明智光秀本能寺の変のあと、山崎の戦いでは羽柴秀吉のもとに駆け付けて戦ったため、7000石の加増を受けました。
1588年、北山攻めの際に京城を築城しました。
1591年、堀内氏善は豊臣秀吉に認められており「熊野惣地」として27000石とあります。
1600年、関ヶ原の戦いにて堀内氏善は石田三成に加担して、九鬼嘉隆と共に熊野水軍約350にて伊勢方面で戦いました。
しかし、西軍敗北と知ると新宮へ引き返しましたが、和歌山城桑山一晴が迫ってきたため、まずは京城に逃れた後紀伊国海部郡加田村(和歌山県和歌山市加太)にて蟄居しました。
堀内新宮城は桑山一晴が占拠しています。
ただし、堀内氏善の命だけは許されており、肥後の熊本城主・加藤清正に仕えると2000石にて、宇土城主となりました。

そのあと、紀伊が浅野家の領地となって和歌山城に入った際に、新たに丹鶴山に新宮城が築かれたと言う事になります。


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堀内新宮城への交通アクセス・行き方ですが、JR紀勢本線の新宮駅から路線バスで、裁判所前バス停下車の徒歩3分となります。
クルマの場合、道が狭くて、曲がり角が曲がりにくいので、遠回りでも、できる限り太い道を選択して訪れるのが賢明です。
場所は、当方のオリジナル関西地図にてわかるようにポイントしてあります。

紀伊・矢倉城であったり、神倉神社がある山頂の紀伊・越路城は、詰め城だったのでしょうか?
堀内新宮城の北隣には新宮周防守行栄の館がありますので、セットでどうぞ。

紀伊新宮周防守屋敷 熊野七上綱・新宮行栄(新宮周防守行栄)の居城
鵜殿城 今川家の家臣である鵜殿氏の発祥地
桑山一晴とは?
紀伊・勝山城 廊之坊重盛(汐崎重盛)
新宮城 (続日本100名城) 丹鶴姫の伝説と堀内氏善も
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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