大阪府

積善寺城 根来衆などが立て籠もった和泉の城跡

積善寺城

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積善寺城(しゃくぜんじ-じょう)は、大阪府貝塚市橋本にある平城です。
現在は明教寺がありますが、その境内と付近一帯が城跡だったようです。
もともとは、和泉国の四長者のひとりとされる、郡吉長者(ぐんきち-ちょうじゃ)が所有する仏観音堂がありました。
しかし、根来衆三好長慶が争うようになり、戦国時代の1558年に、砦が築かれたとされ、これが最初の築城と考えられています。
周辺は昔からある集落のようでして、道路も狭いです。

積善寺城

その後、1583年、賤ケ岳の戦いにて柴田勝家を制した羽柴秀吉は、いまだ従わない根来寺などに対抗するため、岸和田城中村一氏を入れます。
このとき、羽柴勢に対処するため、根来衆と雑賀衆は、和泉・中村城、和泉・沢城、畠中城、和泉・田中城、和泉・鳥羽城、積善寺城、千石堀城和泉・高井城など、岸和田城を伺う砦を強化しました。
そして、1584年、小牧・長久手の戦いのあと、羽柴秀吉の紀州征伐になると、根来衆の主力部隊は、この積善寺城に入ったと言う事になります。

豊臣勢は、和泉・鳥羽城、和泉・中村城、積善寺城と攻撃を開始しました。
このとき、文献が良く残っており、積善寺城の根来衆の様子などが分かっています。

積善寺城には、本丸に5つの櫓(矢倉)があったようです。
本丸の守将は、出原右京で、本丸矢倉の守りは山田蓮池坊と野原大部。
東矢倉は知明院。
西矢倉は長橋正知坊。
北矢倉は長橋正知坊、出田長寿院、山下南ノ坊。
北矢倉は西蔵院、寿宝院。
南矢倉は近木忠次郎、熊取寿命院、熊取大納言。


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根来寺に関与する僧侶が鉄砲を武器に戦いましたので、お坊さんの名前の武装僧侶が中心になっています。
常備兵は360で、援軍として9140が入ったと記録されています。
これだけ詳細に分かっているのは非常に珍しいです。
しかも、負けた側の史料ですが、筆をとって文字を書ける者が、それだけ多くいたとも言えるでしょう。

豊臣勢は、地蔵堂丸山古墳に本陣を置いて、細川忠興大谷吉継・蒲生賦秀・池田輝政らが積善寺城を攻撃しました。
しかし、三重の堀を巡らせた堅固な城であったため、陥落はしなかったようです。
豊臣秀吉は、根来寺出身の貝塚の地頭になっていた卜半斎了珍(ぼくはんさい-りょうちん)を仲介役として派遣し、積善寺城、畠中城を降伏開城させています。

千石堀城の大谷左大仁は、豊臣勢に屈しなかったため、ほぼ同時期に千石堀城の戦いが発生しています。
また、高山重友・中川秀政は、和泉・沢城を攻撃して降伏させ、根来衆らの城砦は全て陥落しました。
その後、豊臣秀吉が根来寺に軍勢を勧めると、残っていた僧侶らは逃亡し、ほぼ無血で根来寺を占領しています。
その夜、火事が発生すると、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して根来寺は灰燼に帰しました。

さらに豊臣秀吉は、高野山に攻め登り、紀南を拠点とすた雑賀衆への攻撃も開始して、紀州平定を実現するのです。


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現在の遺構としては、かつて城があったことを示す案内板がある程度になっています。
積善寺城の案内板がある場所は当方のオリジナル地図にてわかるようにしておきますが、駐車場などはありません。
その案内板がある場所ですが、道路工事中?で、警備員さんもおり、とてもクルマを止めらなかったため、撮影は断念しました。

交通アクセスですが、JR西日本「阪和線」の和泉橋本駅から徒歩10分ほどになります。
このあとには岸和田城に行きました。

根来寺 荘厳な雰囲気な根来衆の本拠地
根来大善(根来盛重) 根来衆の頭領
千石堀城 和泉にて対抗した根来衆の砦
和泉・高井城 失われつつある遺構
紀伊・雑賀城 豊臣勢に雑賀衆が抵抗した拠点と雑賀撃ち
岸和田城 数々の合戦を経験した続日本100名城


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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