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日向・飫肥城の解説【日本100名城】風情ある城下町は超オススメの観光スポット

飫肥城




飫肥城(おびじょう)は、宮崎県日南市飫肥にある群郭式平山城で、舞鶴城とも言い、国指定史跡と日本100名城にもなっています。
標高は51m(比高50m)と海からも近いことがわかります。

最初の築城は、延岡の日向・井上城主である土持通綱や土持宣綱など土持氏の一族が飫肥(おび)(飫肥院)にも広がった飫肥土持氏だと考えられます。

その後、島津宗家の所領となっており、1458年に島津忠国は、一族の新納忠続を志布志城から飫肥城へと移して、櫛間城の伊作家・島津久逸ととも勢力を伸ばしている佐土原代主・伊東祐国に備えました。





1484年、伊東祐国は豊後国の大友氏などの助けを受けて、新納忠続が守る飫肥城を攻撃します。
この前後、伊作家8代当主の島津久逸(しまづ-ひさやす)は叛旗を翻して伊東家に味方し、鹿児島・清水城に迫っています。
1485年、伊東祐国の父・伊東祐堯が出陣中に清武城らて急死し、伊東祐国が家督を継承すると、弟・伊東祐邑と共に再度、飫肥城を攻撃しました。

日向・飫肥城

この時の伊東家の軍勢の記録が残っており、それによると、下記のとおりです。
都於郡城佐土原城宮崎城、木脇城、八代城、三納城、穂北城、富田城、財部城、高城、塩見城、日知屋城門川城、山陰城、田代城、神門城、入下、宇納間、水清谷、銀鏡、小河、雄八重、中ノ俣、鵜戸、曾井、加江田の兵だったとあります。

日向・飫肥城

飫肥城は包囲されて、島津援軍の島津伯耆守が討ち取られますが、飫肥城は新納忠続が良く守りました。
島津忠昌も自ら軍勢を率いてくると、楠原の戦いにて、伊東祐国を乱戦の最中に討ち取っています。
1486年、新納忠続は志布志城に戻り、代わりに反逆した島津久逸を撃退する功があった島津忠廉(豊州家)が、帖佐(ちょうさ)から飫肥城に入っています。
飫肥城をめぐって島津家と伊東家は、何度も戦いを展開しますが、島津忠廉(しまづ-ただかど)は度々侵攻を阻止しています。

飫肥城

その後、島津忠朝(豊州家)の代である1495年、島津忠昌は伊東尹祐に日向三俣院1000町を割譲し、和睦が成立しました。
しかし、平和は長続きせず、1532年、島津忠朝(しまづ-ただとも)は、北郷忠相・北原久兼と連合して、伊東領の三俣院高城を大軍で攻めて、伊東勢に深刻な被害を与えました。

飫肥城

1538年には、島津忠朝と北郷忠相、肝付兼続らが志布志城の新納忠勝を攻撃すると、新納忠勝は島津忠朝の元に逃れました。
島津忠朝は志布志城に移り、子の島津忠広 (豊州家)が飫肥城主となっています。

飫肥城

この頃、島津宗家では、薩州家の島津実久と、伊作家の島津忠良・島津貴久の親子が覇権を争っています。
1541年になると、豊州家の島津忠広や肝付兼演・本田薫親らは、島津貴久に味方する大隅・生別府(おいのびゅう)の樺山善久を攻めました。
しかし、1545年に島津貴久が薩摩の国主として公認されめ伊集院一宇治城を本拠とすると、伊東義祐が攻勢を強めていると言う大問題を抱えている島津忠朝(豊洲家)は北郷忠相とともに、島津貴久に従属しています。

飫肥城

1546年、島津忠朝の養子である島津二郎三郎賀久(島津忠隅の子)が夭逝し、都之城主・北郷忠親を養子に迎えた島津忠広 (豊州家)は、1549年に家督を北郷忠親(島津忠親)に譲って隠居しました。
しかし、伊東義祐の攻勢はますます増大したことから、北郷忠親は1560年に、島津宗家15代当主・島津貴久の次男で、猛将と誉れ高い島津義弘を養子に迎えて、飫肥城の守備を任せています。

飫肥城

こうして、島津義弘が飫肥城となった訳です。
しかし永禄5年(1562年)、薩摩の島津本家は高山城主の肝付兼続から激しい攻撃を受けるようになったため、島津義弘は戻らざるをえなくなり、島津義弘不在の飫肥城だけでなく、志布志城も肝付兼続によって陥落し、養子縁組も白紙となりました。

飫肥城

2万の大軍をもって念願の飫肥城を手に入れた伊東義祐は、子の伊東祐兵を飫肥城主としています。
下記は飫肥城の本丸・北側にある城門です。

飫肥城

しかし、1572年、木崎原の戦いにて、島津義弘は、伊東家の伊東祐安伊東祐信、落合兼置、米良重方など名だたる武将を討ち取り、伊東家に大打撃を与えました。
そのため、伊東家は衰退し離反も相次ぎ、天正5年(1577年)には重臣の福永祐友、米良矩重らも謀反します。
その機に島津家は飫肥城にも侵攻したため、家臣らも寝返った伊東祐兵は佐土原城に逃れて、到着すると昨日、父と共に豊後の大友宗麟のもとへと落ち延びました。

飫肥城

下記は飫肥城の本丸です。
結構広いです。

飫肥城の本丸

下記は、二の丸にある飫肥小学校の校門ですが、こんな小学校に通いたかったですね。

飫肥小学校

島津氏の所領となると、耳川の戦いでも戦功があった上原尚近(上原長門守)が飫肥城に入っています。

飫肥城の城下町

1587年8月、豊臣秀吉の九州攻めのあとに、島津家は所領を減らされて、飫肥2万8000石は、かつての城主・伊東祐兵に与えられます。
このとき伊東祐兵は曾井城から飫肥城に移ろうとしましたが、上原尚近は城を明け渡すのを拒みました。

飫肥城下

豊臣秀吉は、土井九右衛門尉を死者として送りますが、その一行13名を殺害するなどします。
その後、島津義久の度々の説得に対して、1588年6月にようやく応じていますが、上使を殺害した罪により、嫡子が斬罪とっています。

飫肥城

1600年、関ヶ原の戦いで、伊東祐兵は大坂で病となっていたため、成り行きで西軍の石田三成に協力します。
しかし、密かに黒田如水(黒田官兵衛)を通じて徳川家康に恭順を示しており、嫡男・伊東祐慶らは九州で宮崎城を攻撃させたため所領安堵となっています。

飫肥城

元和3年(1617年)には江戸幕府2代将軍・徳川秀忠より飫肥藩5万7千石の朱印状を受けました。

日向・飫肥城

明治になって活躍した小村寿太郎は、飫肥藩の出身です。
NHK連続テレビ小説『わかば』のロケ地にもなりました。

1978年に大手門が復元され、城内の松尾の丸には御殿を模した歴史資料館が木造で建てられています。

飫肥城の御殿

館内には、飫肥藩関連の歴史的資料220点が有料展示されています。
南九州では資料は撮影禁止の場合が多いのですが、写真撮影も許可されていました。
下記は、殿様用のトイレです。

飫肥城の御殿

これらの施設の建設費の約半分は、市民や企業からの募金で賄われましたと言いますので、素晴らしいですね。
下記は豫章館(よしょうかん)と言う旧藩主の伊東家が明治2年に建てた屋敷をここに移築したものとなります。

豫章館

飫肥城への交通アクセスですが、宮崎空港からはクルマで約1時間です。
JR飫肥駅からは徒歩15分、タクシーで5分となります。
無料駐車場が完備されていてますので、当方のオリジナル地図をご参照願えますと幸いです。

なお、飫肥城と城下町には、豫章館、松尾の丸、歴史資料館、小村記念館、旧山本猪平家、商家資料館、旧高橋源次郎家と7箇所の有料拝観史跡があります。
一箇所大人200円なのですが「由緒施設共通券」と言うのを購入しますと、大人610円、高校生・大学生460円、小学生・中学生360円で7箇所すべてを見学可能です。
共通券はJAF割引も使え、最初に有料見学するところで共通券と申し出て購入すれば飫肥の観光にも便利です。
風情ある城下町も残っている飫肥は1日ゆっくりと観光してみたいと感じました。

飫肥城の観光所要時間ですが、約1時間といった感じです。

清武城~稲津重政と妻・雪絵の死
伊東祐堯~日向伊東氏の中興の祖とされる名将
伊東祐邑と日知屋城~キレイな海に囲まれた堅城と鵜戸神社
綾城と内屋敷城~中世の山城が復元「伊東尹祐と綾の乱」も
佐土原城~伊東家の本拠としても栄華を誇り天守もあった山城
都於郡城~伊東家の本拠として素晴らしい大規模な山城
宮崎城~戦国大名の伊東氏も一時本拠とした山城
高鍋城(財部城)と小浪川の戦い~財部土持氏の本拠地
日向・高原城とは~長倉祐政と上原尚近の武勇も
木崎原の戦い~島津の釣り野伏せ戦法と伊東家の総大将「伊東祐安」
日向・塩見城~争いに翻弄された日向三城のひとつ
志布志城と鎌田政近~松尾城・内城・高城・新城からなる城郭群
伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落
伊東祐兵~所領を失うも巧みに戦国を生き抜き3万6000石にて復活
都之城とは~都城を守りきった名将「北郷忠相」
小村寿太郎とポーツマス条約とは~大国と渡り合った外務大臣
九州の史跡探訪用オリジナル地図(カーナビ代わりにも)





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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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