宮崎県

門川城と米良四郎右衛門(米良祐次)

門川城




門川城

日向・門川城(かどがわ-じょう)は、狗山城とも言う標高29mの平山城で、比高は20mになります。

最初の築城は不明ですが、鎌倉時代に工藤祐経(工藤左衛門尉祐経)の子である伊東祐時の7男・伊東祐景(すけかげ)が日向に下向します。
このときも、県(延岡市)と富田(門川町と日向市)を治めていましたが、伊東祐景は「門川殿」と呼ばれていますので、この門川城のあたりを知行していたものと推測できます。

門川の本家は佐々宇津氏が受け継ぎ、他に小松、日知屋、宮崎、曽井、山之城、飯田、平賀、石塚、池尻、清武、穆高、村角家と13氏に分かれますが、これらを門川党とも言います。
しかし、もともと沿岸部にて土着していた土持氏に圧迫され、この地を追われていたのです。





南北朝時代となって、足利尊氏のもとで活躍した伊東宗家の当主・伊東祐持が日向に下向すると、都於郡城にて勢力を伸ばし、門川党の子孫らは、伊東の本家に従いました。
そして、伊東氏は宮崎土持氏を滅ぼし、文明年間(1469年~1487年)になって、伊東祐尭が門川城を築いたとされます。

伊東氏48城のひとつでもある門川城は、日知屋城・塩見城とあわせて伊東三城と呼ばれる重要な城で、敵対した松尾城の縣土持氏に対抗する拠点となりました。

と申しますのも、財部土持氏の土持影綱と、県土持氏の土持宣綱は連合して、伊東祐堯に敵対し、1456年には小浪川の戦いとなっています。
この時、都於郡城主・伊東祐堯は逆に新納院土持の財部城を攻撃して、土持惟綱(土持是綱)は伊東家に降伏させることに成功し、門川を回復したのです。

そして、縣土持氏の日向北部へ勢力を伸ばす拠点として門川城を築いたと考えられます。

松尾城(懸城)の土屋氏も、なんどか門川城を攻撃しては、伊東氏から奪っている時期もあります。
しかし、伊東氏の方が優勢で、戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)の城主は、伊東家の重臣である米良四郎右衛門(米良四郎右衛門尉)が努めています。

下記は門川城の登城口にある立派な案内板です。

門川城

米良祐次(米良四郎右衛門)

米良祐次(めら-すけつぐ)は、米良四郎右衛門とも称した日向・伊東家の家臣で、門川城主となりました。

1572年、木崎原の戦いのあと、伊東家が弱体すると、土持成親が好機とばかりに門川城を攻めますが、米良祐次(米良四郎右衛門)は撃退に成功しています。

1573年1月には、米良四郎右衛門(米良祐次)が小姓・高妻孫三郎を折檻したとあります。
そのため、高妻家は恨み、県土持氏の所へ行って門川城攻略を論しました。
こうして、2月9日、土持親成は300で、夜陰に紛れて出陣しますが、通報した者がおり、米良四郎右衛門は迎え撃つ準備を整えました。
高妻孫三郎は密かに門川城に潜入して、米良四郎右衛門に斬りかかりますが、防具によって浅手で終わり、逆に討たれたとあります。
土持勢は大貫修理亮らが討ち死にして退却しました。
その後、2月22日にも、土持勢は400にて再度攻めますが、米良四郎右衛門が西の戸口にて、米良伊予守は東の戸口にて守備して籠城したと言います。
そして、塩見城、山陰城、日知屋城からの加勢が届くと、土持勢は退却したとあります。。

1577年12月、伊東崩れで、伊東義祐佐土原城を捨てると、米良四郎右衛門は、山陰城主・米良喜内、塩見城主の右松四郎左衛門とともに、島津家に人質を出して表面上は臣従します。
しかし、大友宗麟に対しては、日向侵攻をして島津勢を蹴散らして欲しいと懇願しています。

こうして、大友勢が日向に侵攻すると、呼応した米良四郎右衛門ら伊東家の旧臣は、大友家の軍勢の佐伯入道、田原親賢、田北鎮周らと松尾城の土持親成を攻撃して滅ぼしました。

その後、大友勢に従って、高城攻撃のため布陣しますが島津義久島津家久と、耳川の戦いになります。
大友勢は伏兵の島津勢に敗戦して総崩れとなり、臼杵鎮続、田北鎮周、蒲池鑑盛、佐伯惟教、角隈石宗、斎藤鎮実、吉弘鎮信らと共に米良四郎右衛門(米良祐次)も討死しました。
塩見城主・右松四郎左衛門尉、日知屋城主・福永氏本も戦死しています。

その後、門川城には島津家より伊地知丹後守が入った模様ですが、伊地知丹後守は耳川の戦いで討ち死にした可能性もあります。
また、門川神社所蔵の天正13年(1585年)若宮神社再興棟札によると、門川城主は藤原祐盛とも名があります。
伊地知丹後守は平氏であるため、島津家から派遣された城主が変わっていたと考えて良いでしょう。
ただし、藤原祐盛の「祐」の字は気になりますね。

伊東氏は工藤祐経以来の「祐」の字を通字としており、多くの武将が受け継いでいます。
庶流でも伊東祐松、伊東祐梁、伊東祐信伊東祐安、伊東祐青、佐土原祐秀、長倉祐政など、多くの武将に「祐」(ゆう)の字が見受けられます。
伊東マンショも、本名は伊東祐益です。

そして、伊東氏の祖である工藤氏は、藤原南家・藤原為憲の流れですので本姓は「藤原姓」です。

となると、この藤原祐盛と言う門川城主は、伊藤氏の生き残りと考えて良いでしょう。

豊臣秀吉の支援を受けて、復帰する伊東義祐の子である伊東祐兵は、天正15年(1587年)に旧領を回復しますが、それは飫肥城であり、門川城からは遠くはなれています。

鎌倉時代の伊東祐時の次男としては、稲用祐盛がいますが、戦国時代の伊東祐盛は見つかりません。
ということで、藤原祐盛に関しては、不詳と言わざるを得ません。

1587年、豊臣秀吉の九州攻めのあと、松尾城(懸城)に入った高橋元種の領地となり、門川城は属城となりますが、これまた城主などの名は伝わっていません。
その後、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になった模様です。





門川城の案内板がある位置を当方のオリジナルGoogle九州地図にてわかるようにしてあります。
ただし、大変残念ながら駐車場がありません。
道も狭いので適当に止めてしまうと、緊急車両の通行障害にもなり、なにかあった際には地元の皆様に大きな迷惑を掛けてしまう恐れがあります。
そのため、登城は断念して、遠景などの撮影に留めさせて頂きました。
歴史的にも重要な城であっただけに残念です。

伊東祐堯~日向伊東氏の中興の祖とされる名将
伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落
伊東祐兵~所領を失うも巧みに戦国を生き抜き3万6000石にて復活
日向・塩見城~争いに翻弄された日向三城のひとつ
伊東祐邑と日知屋城~キレイな海に囲まれた堅城と鵜戸神社
日向・松尾城(縣城)~日向の延岡にて勢力を誇った土持氏最後の本拠
木崎原の戦い~島津の釣り野伏せ戦法と伊東家の総大将「伊東祐安」
高鍋城(財部城)と小浪川の戦い~財部土持氏の本拠地
都於郡城~伊東家の本拠として素晴らしい大規模な山城
佐土原城~伊東家の本拠としても栄華を誇り天守もあった山城
土持親成~死しても家を残すことに成功した名君
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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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