高原城(たかはるじょう)は、宮崎県西諸県郡高原町にある平山城で、別名は松ヶ城とも言います。
大淀川の支流である辻の堂川の南側にある台地に位置しています。
標高約200mの台地で、比高約40mの谷が入り組んでいますが、南側は九州縦貫目動車道・宮崎自動車道路が貫通して遺構が失われています。
なお、遺構は結構残っているそうでして、本丸部分は墓地になっていますが、高原城跡は、現在、民間の私有地で、立ち入りが認められていません。
そのため、遠景の撮影だけに留めましたが、もっと、訪問した時は「雪」でして、散策する気にもならない状態でした。
北原氏の家臣・白坂下総介が高原城主であったともあります。
なお白坂下総介の父・白坂兼次は高原の地頭とありますので、その頃には高原城が機能していたと考えて良いでしょう。
日向地誌によると戦国時代の永禄年間(1558年から1570年まで)に、島津家の家臣・梅北掃部が築いたと伝わります。
この梅北氏と言うのは、肝付氏の一族で梅北城が本貫となります。
ただし、梅北氏の宗家は、代々、河内守を称することが多いため、この梅北掃部は、庶流と考えられます。
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なお、永禄年間の初期に、伊東義祐は梅北掃部の高原城を攻め落として、伊東勘解由を高原城主にしました。
伊東勘解由と言う武将は、もとは長倉祐政と言う名前でした。
少しご紹介したいと存じます。
長倉祐政
長倉祐政(ながくら-すけまさ)は、長倉祐歳の子となります。
別名は長倉新七郎、伊東勘解由となりますが、御感状連判衆であり、長倉家の惣領家を継いでいます。
伊東氏の庶流が長倉氏で、伊東家が日向に下向したときからの重臣の一族となります。
長倉祐政は、永禄10年(1567年)に、島津勢が守る飫肥城を攻めた際に、青陰勘解由(青陰勘解由左衛門尉)という武将を討ち取ります。
この戦功で、主君の伊東義祐から伊東姓を賜り、伊東勘解由と称しました。
なお、伊東姓は息子の長倉近江守に譲った模様で、自らはそのまま長倉姓を名乗ったようです。
元亀3年(1572年)、木崎原の戦いにて伊東家が大敗しても、引き続き前線の高原城を守備しました。
そして、島津家への嫌がらせとして、霧島神社の祭祀の日には、島津領に侵入し、度々、祭りを妨害しています。
そのためか、天正4年(1576年)に北原兼親ら島津家の猛攻撃を4日間受け、水の手を奪われると高原城は開城したとあります。
その後、伊東家の佐土原城などに戻っていたようで、1577年、伊東崩れの際には、嫡子・長倉近江守、次男・長倉六郎太郎とともに、伊東家の面々と豊後へ落ち延びました。
伊東家没落後は、豊後と日向を往復すると、日向に残った伊東家の旧臣と蜂起を目指します。
そして、三納にて一揆を起こし、綾城へ放火しました。
また、伊東四十八城の旧臣らと蜂起して、都於郡城を攻めようとしましたが、これは失敗しています。
1578年9月には、いよいよ大友軍が南下したため、その勢いを得て、新納石城(木城町)に敗残の伊東旧臣を集め、島津勢の激しい攻撃をかわしました。
そして、耳川の戦いに挑みますが、米良四郎左衛門尉らと高城河原にて長倉祐政(伊東勘解由)は討死しました。
なお、伊東家の時代に、日向・野尻城の福永丹波守の一族と考えられる、福永淡路守の子・福永源左衛門尉が高原城主になったともありますが、時期が不明です。
上原尚近
島津家が落とした高原城には、島津家の家老・上原尚近(上原長門守尚近)が配置されました。
2週間後には、高原地頭にも任命されています。
この上原尚近(うえはら-なおちか)が、野尻城の福永祐友と伊東義祐の間に不和があると知ると、謀略を仕掛けて、福永福永を説得し、野尻城を開城させました。
その後、上原尚近は耳川の戦いや合志城の戦いにも参戦しています、
そして、日向国飫肥の地頭となると飫肥城主になりました。
豊臣秀吉の九州攻めのあと、1587年8月に飫肥城・曾井城・清武城を拝領した伊東祐兵が、曾井城から飫肥城に移ろうとした際、上原尚近は城の受け渡しを拒みます。
使者を殺害するなど激しく抵抗しますが、島津家からの説得を受けて、ようやく飫肥城を明け渡しました。
天正20年(1592年)に死去しています。
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さて、日向・高原城の話に戻しますが、その後、重要性は失われて城の話はでてきません。
明治に入って、西南戦争の際に、西郷隆盛らの薩軍が、鹿児島へ敗走する際には、高原城跡にも一時入ったとされます。
高原町教育委員会による案内板が国道221号の宮崎自動車道に架かる跨道橋の南付近に設置されているようですが、気が付きませんでした。
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