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常陸・長山城のちょこっと解説~長山幹綱の居城である常陸・大掾氏の一族

常陸・長山城

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常陸・長山城とは

常陸・長山城(ながやま-じょう)は、茨城県潮来市永山にある比高12mほどの丘城で、常陸・永山城とも書く。
最初の築城としては鎌倉時代中期の1200年頃とされ、小高知幹(長山知幹)が築いたとされる。
常陸・長山氏は大掾氏の庶流である行方氏の一族になる。
詳しくは、常陸・島崎城にて触れているので簡単に説明させて頂くが、源義経に従って1184年の屋島の戦いにて討死した行方景幹(行方宗幹)の4人の子は常陸・小高城の小高為幹(行方為幹)、島崎次郎、常陸・麻生城の麻生三郎、常陸・玉造城の玉造四郎へと分家した。(行方四頭)

鎌倉時代には小高氏が宗家と言う事になり、小高為幹以降の子孫は小高氏として19代にわたって常陸・小高城を本拠にした。
そのうち、行方幹平(小高幹平)の次男・小高知幹(長山知幹)が長山氏の祖と言う事になるのだが、父とされる行方幹平(小高幹平)に関して調べても全くわからない。
当然、長山知幹に関しても詳細は不明で、兄の名も分からない。
もし、ご存知の方がおられたらご教授賜ると幸いだ。

常陸・長山城

鹿島神宮の大使役(鹿島大使)は、行方・島崎・真壁・小栗・吉田・鹿島・馬場の7家とされ、長山氏は含まれていないため、そこまで大きな勢力は誇っていなかったと考えられる。

さて、常陸・長山氏7代・長山宗幹は、1416年、上杉禅秀の乱にて本宗家・大掾満幹に従って戦功を挙げたとある。

常陸・長山城

戦国時代に入り10代・長山幹綱は、1522年、常陸・島崎城の島崎安国(島崎忠幹)に攻撃され、長山城(永山城)は落城・自害した。
子の長山政幹(長山勘解由政幹)は、常陸・太田城の佐竹義篤を頼って逃れたとある。

常陸・長山城

このとき、島崎勢は長山領との境界にある川を夜に渡ったとあるので夜襲したのであろう。(長山館の戦い)
その川は、夜越川(よろこし-かわ)と呼ばれるようになった。
ちなみに、島崎城から長山城は、現在の道路を歩くと約3km、徒歩40分と隣通しの城と言える。
夜間に襲撃されたら、この距離では家臣らを集結させる時間もなかったことであろう。

更に島崎忠幹は唐ヶ崎の戦いで小高貞幹を支援し、玉造宗幹勢と戦って敗退したともある。

その後の長山城に関しては伝わっていないが、島崎氏の家臣が入ったと考えてよいだろう。


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一方で、佐竹家に身を寄せていた長山勘解由政幹は佐竹勢の武将として1543年にに陸奥・窪田に出陣して軍功があるようだ。
すでに落城していたはずだが、このとき、長山勘解由政幹は長山城主として紹介されているので、佐竹氏の力で復帰?していた可能性も考えられるも、確かめるすべはない。

交通アクセス

JR潮来駅から約6km、徒歩1時間20分ほど。
潮来(いたこ)駅に隣接する観光案内所でレンタサイクル(貸自転車)があるようなので、常陸・島崎城とセット訪問が良いか?
三郭があった、かすみの郷公園に無料駐車場とトイレあり。
常陸・長山城の案内板がある場所を当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。

このあとは阿波崎城に向った。

常陸・島崎城の歴史解説~鹿島神宮の大使役(鹿島大使)も務めた島崎氏
常陸・府中城(石岡城)の歴史を詳しく 大掾清幹も
日本全国のお城マップ


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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