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三河・東条城とは
東条城は愛知県西尾市吉良町駮馬字城山にある平山城で、中世室町期には吉良家の本拠地として栄えた城です。
現在では西尾市となっていますが、平成の大合併の末期である平成23年(2011年)に一色氏発祥の地である一色町、江戸時代に長崎奉行となった幡豆小笠原氏の先祖が住んでいた幡豆町、吉良家発祥の地である吉良町の3町が西尾市と合併して現在に至っています。
東条城のある旧吉良町の一帯は、古来より六角形の結晶でうすく剥がれる性質を持つ雲母(うんも)の産地として有名で『続日本書紀』の元明天皇記には、和同6年(713)年、大倭・三河の両国から「雲母(きらら)」を輸納させたと言う記述があり、その雲母が採れた地が、旧吉良町の北部にある八ツ面山(やつおもてやま)一帯とされています。
現代では電気を通さない性質を利用してアイロンやポットなどの家電製品の一部に利用されている雲母ですが、光沢の美しさから古来より装飾品として使用され『きらら』とも呼ばれており、その名産地であった事から地名を吉良とするようになったと言われています。
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平安時代末期から鎌倉時代初期の院政期では吉良荘は摂関家の領地であり、昭和8年(1933年)に刊行された『荘園志料』では現在の西尾市一帯に加え、幸田町や岡崎市南部などに広がっており、当時の矢作川(現在の矢作古川・弓取川)によって東西に分かれていましたが、昭和初期までは現在の西尾市一帯(旧幡豆郡)を『吉良』と呼んでいたようです。
歴史
承久3年(1221年)に起きた承久の乱で戦功を立てた足利義氏(あしかが-よしうじ)は三男ながら、正室に鎌倉幕府二代執権の北条泰時(ほうじょう-やすとき)の娘を迎えていたため、足利家の家督を継ぎ三河守護などの地位を得ました。
京と鎌倉を繋ぐ中間地で、雲母以外にも塩田などの名産品を持ち、矢作川の流れを利用した交易も盛んな三河地区に進出する足掛かりを得た足利氏は、吉良だけでなく一色(西尾市一色町)、今川(西尾市今川町)、細川(岡崎市細川)、仁木(岡崎市仁木)など地名を冠した苗字を名乗らせた分家を三河地区で輩出して強固な地盤を作り出していき、その子孫は遠駿を支配した戦国大名の今川氏、丹後・若狭を支配した一色氏、織田・豊臣・徳川に仕え、肥後(熊本)を得た細川氏などの戦国大名へと成長していきました。
足利義氏は吉良荘を私領として長男の足利長氏(あしかが-ながうじ)に西条城(後の西尾城)を与えて西条吉良氏を名乗らせ、三男の足利義継(あしかが-よしつぐ)には東条の地を与え東条吉良氏の祖とします。
吉良義継の跡を継いだ吉良経氏(きら-つねうじ)は西条吉良氏の吉良満氏の実子と言われていますが、吉良義継が渡唐を行い出家したため養子となり東条吉良家へ入ります。
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その後、三代目吉良経家(きら-つねいえ)四代目吉良貞家(きら-さだいえ)と続き、建武の新政期には足利直義(あしかが-ただよし)に従い関東へ下向して関東廂番六番衆の三番手に任ぜられ、成良親王(なりよし-しんのう)の警護を行います。
南北朝の争乱では足利尊氏(あしかが-たかうじ)に従軍し、箱根・竹ノ下の戦いに参戦後は本軍とは別行動をとり、本拠である尾張・三河を転戦した後、軍を再編して関東地方で南朝軍と戦闘を繰り広げ、九州に落ち延びた足利尊氏が京都を奪回すると、これに呼応して上洛を果たして因幡・但馬の守護職に任ぜられた後、畠山国氏(はたけやま-くにうじ)と共に奥州管領に赴任して子孫は奥州(武蔵)吉良家として代を重ね、鎌倉公方の足利基氏(あしかが-もとうじ)から一門衆として上野国に招かれた後には蒔田氏に名乗りを変えました。
同じ時期、西条吉良氏の吉良満義(きら-よしみつ)は足利直義の信頼を得ており、観応の擾乱でも足利直義と共に南朝方に付いて足利尊氏の軍と戦闘を繰り広げていきますが、足利尊氏も南朝方と和睦をしたため、吉良満義が所属する南朝方は戦局を優位に進めていきます。
しかし、京都と鎌倉を奪還した足利尊氏は南朝との和睦を破棄して幕府体制の強化を推し進めます。
こうした状況の変化に対し、吉良満義は南朝方に固執する嫡男の吉良満貞(きら-みつさだ)と袂を別ち、足利尊氏に帰順しますが延文元年(1356年)に没します。
この時、奥州へと主が去っていた東条城は西条吉良氏が接収していましたが、吉良満義が没すると東条吉良家の旧臣は吉良満義の三男で九歳の吉良尊義(きら-たかよし)を担いで西条吉良家からの独立を画策します。
この行動に対し、西条吉良家を継いでいた吉良満貞は独立敵対行為とみなし、両者は戦いを開始。この戦いは吉良満貞が延文5年(1360)年に足利幕府に帰参すると和睦となりましたが、その後も禍根は絶える事無く東西吉良家は事ある毎に反目をして争いを繰り広げる事になっていきます。
吉良尊義を初代とした後期東条吉良家ですが、室町幕府の支配の中で代を重ね、五代目の吉良義藤(きら-よしふじ)の代に戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が勃発します。
山名宗全(やまな-そうぜん)の娘を娶っていた吉良義藤はいち早く帰郷し、東軍細川方に付いた西条吉良氏の領地へ侵攻。
これに対し、西条吉良家の当主である吉良義真(きら-よしざね)も防衛のために帰郷して戦いを繰り広げたと言われていますが、史料として残されている物は少なく、わずかに『三河軍記』に記載があるのみとなっています。
細川氏の支配する三河での戦況は吉良義真が従う西軍の一色義直が尾張知多郡より軍勢を侵攻させ戦を優勢に進めて行き、三河守護代の東条国氏を自害に追い込んだため、細川成之は幕府への出仕を拒否。文明9年(1477年)に和睦が成立し、翌文明10年(1478年)には一色義直が三河を放棄したため三河一帯は松平氏、戸田氏などの諸豪族の支配力が高まって行きます。
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吉良義藤の孫にあたる吉良持広(きら-もちひろ)の頃になると、隣国の尾張では織田信秀(おだ-のぶひで)が台頭。西三河一帯は織田氏と駿河・遠江の大名である今川氏の勢力が激突する地になっていました。
西側から織田氏の圧力が高まってきた西条吉良氏は織田氏と誼を結び、それに対抗するように東条城の吉良持広は、同じく織田家と対立していた松平氏と共に今川氏へ接近していきます。
天文4年(1535年)松平清康(まつだいら-きよやす)が死去すると、松平一族に内紛が発生。
『三河物語』によると宗家を継いだ松平広忠(まつだいら-ひろただ)が岡崎城から追放されると、吉良持広はこれを保護して所領のあった伊勢国へと招き入れ、今川義元に松平家の救援を執成したと伝わり、天文6年(1537年)松平広忠の岡崎城復帰を手助けした後、加冠元服の際には広の一文字を与えて広忠を名乗らせます。
吉良持広は、これまで敵対していた西条吉良氏6代の吉良義堯(きら-よしたか)の次男にあたる吉良義安(きら-よしやす)を娘婿に迎え、実子の吉良義次(きら-よしつぐ)は幼少のため織田家へと人質に出す事にし、東西吉良家の融和を図ろうとしますが、天文8年(1539年)織田・今川の争いが激化する中で吉良持広は死去。
東条吉良家は織田方、西条吉良家は今川方に付き、依然として抗争は続く事になります。
天文18年(1549年)今川軍は織田方の安翔城を攻略。
城主の織田信広(おだ-のぶひろ)の生け捕りに成功し、織田方にいる松平竹千代(後の徳川家康)と交換される事になります。
この時、吉良義安も今川軍の人質とされ松平竹千代と同様に駿府に送られ成長する事になります。
一方、西条吉良家の吉良義昭(きら-よしあき)は当初より今川方に属していたため、当主が不在となった東条城は西条吉良家に接収されました。
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永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元(いまがわ-よしもと)が討死すると松平元康は独立を図り、三河平定へと突き進みます。
翌永禄4年(1561年)西条城を攻略した松平勢は吉良義昭の立て籠もる東条城へと軍を派遣。
東条城の南に友国砦、津平砦、小牧砦を築き、東条吉良家の重鎮である富永氏の入る室城の監視として糟塚にも砦を築き上げ、東条吉良家を攻め立て、旧暦9月13日、東条城の西にある藤浪畷で合戦が行われます。
この戦いで東条吉良家の家老で、吉良家の軍を引きいていた富永忠元(とみなが-ただもと)が松平軍の本多広孝(ほんだ-ひろたか)に討ち取られました。
『三河物語』によると、富永忠元戦死の報を受けた両軍は「伴五郎(富永忠元)が死んだから、東条城の落城も間近だろう」と言い合ったとされ、その後まもなく吉良義昭は城を明け渡して松平元康に降伏して領地は安堵されますが、永禄6年(1563年)三河一向一揆の際に吉良義昭は再び松平氏と敵対。
一向一揆の敗北と共に吉良義昭は近江国へと落ち延びて行き、吉良家は松平家康と共に人質時代を過ごした吉良義昭が相続しますが、東条城には青野松平家の3代目である松平家忠(まつだいら-いえただ)が入り東条松平家が成立(東条松平家の成立には諸説有)。
親戚である深溝城の松平家忠とは同名の上、年齢も居城も近い為、東条城の松平家忠は甚太郎家忠と名乗っています。
甚太郎家忠は姉川合戦や長篠の戦など各地の戦いに参戦しますが、病弱だったため天正9年(1581年)26歳の若さで病没。
跡は徳川家康4男の松平忠吉(まつだいら-ただよし)が入り、沼津城主になった際に廃城となります。
なお、吉良義昭が継いだ吉良家は関ケ原合戦後に三千石を安堵され高家に列せられ、孫の吉良義央(吉良上野介)の時に起こった元禄赤穂事件により断絶となりました。
交通アクセスと登城
公共交通機関で東条城へ訪問する場合、名古屋鉄道の上横須賀駅が最寄り駅となりますが、駅からは徒歩30分程度かかりますので、自家用車での訪問がお勧めです。
県道42号(西尾吉良線)と県道318号(宮迫今川線)が交わる寺嶋交差点を東に140m程進み、南側に入る路地脇に藤浪畷古戦場の碑があります。
さらに500m東に進んだ南側が東条城跡になり、城の東側に隣接する箇所に駐車場があります。
城跡は城址公園として整備されており、当時を思わせるような逆茂木で覆われ、模擬櫓も建てられていましたが、建てられてから年月も経ち、耐震強度などの安全面を考慮して模擬櫓は破却されました。
関連する史跡
○鎧ヶ淵古戦場
西尾市吉良町岡山鎧
黄金堤の脇に看板が立てられています。
〇藤波畷古戦場碑
西尾市吉良町瀬戸8-13
県道318号線の脇に碑があるのみです。
〇富永伴五郎討死の地
西尾市吉良町寺嶋桑原
田の中に地蔵堂があり、碑も立てられています。
〇小牧陣屋
西尾市吉良町小牧郷後34-2
徳川家康が東条城を攻略する際に本陣とした地です。
冠木門を入口とした公園になっています。
○友国砦
西尾市吉良町友国王塚14-10
東条城攻略の際、松平軍によって南側に建てられた付砦の一つ。
集合住宅の中に碑があるのみです。
○津平砦
西尾市吉良町津平新山
東条城攻略の際、松平軍によって南側に建てられた付砦の一つ。
津平小学校の西にあった山が砦跡でしたが、削平されてしまっています。
※写真は津平小学校の斜面
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(寄稿)だい
・三河・金谷城の解説 ~TOYOTAの中心地・剣豪の城~
・三河・一宮砦の解説 ~神君家康二代武勲の一つ後詰の砦~
・三河・岡山城のちょこっと解説~吉良氏の重臣・富永氏の属城か?三河一向一揆では久留正勝が籠城
・三河・牟呂城(三河・室城)の解説【どうする家康】富永忠元(富永伴五郎忠元)の居城
・三河・東条城の解説【どうする家康】東条・吉良氏となった吉良義昭は織田信長に味方
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