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深溝城
深溝城(ふこうず-じょう)は愛知県額田郡幸田町(ぬかたぐんこうたちょう)に位置する平山城です。
歴史
深溝城は鎌倉幕府の有力な御家人であった大場氏(大庭氏)の子孫である大庭朝満(おおば-ともみつ)が寛喜3年(1231年)足利氏に縁の深い額田郡深溝に移住して城館を築き、正慶元年(1332年)頃に大庭朝泰(おおば-ともやす)によって本格的な城が築かれ始めたと言われています。
大庭朝泰は足利尊氏の母方の祖父にあたる上杉頼重の子で三位大僧都の日静上人を招き、城の西方に長満寺を造立。
大庭氏の菩提寺とし、その後、約200年の間深溝の地は大庭氏が支配していました。
寛正6年(1465年)額田郡一揆と呼ばれる額田郡南部(現在の幸田町周辺)一帯を地盤とする地侍たちの一揆が勃発。
『今川記』によれば、深溝の大庭次郎左衛門は鎌倉公方足利成氏の命令と称して丸山中務父子らと共に井ノ口城を拠点に街道を封鎖して年貢米などを強奪。
これに対し幕府は松平信光と戸田宗光に討伐を命じ、丸山中務は大平郷にて戸田宗光に討たれ、大庭次郎左衛門は本拠の深溝で松平忠景(まつだいら-ただかげ)によって討ち取られたと言われています。
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一揆終息後に幕府より恩賞として深溝の地を得た松平氏は松平忠景の次男である松平忠定(まつだいら-たださだ)を深溝城に入れ、深溝松平家が起こる事になります。
桶狭間の戦いの後、今川家から独立し三河統一を目指す徳川家康は東条城の吉良義明(きら-よしあき)を攻略するべく攻撃をしかけます。
この戦いで深溝松平氏の2代目松平好景(まつだいら-よしかげ)は今川方の武将を討ち取った事により徳川家康から中島城を与えられ、深溝城には長男の松平伊忠(まつだいら-これただ)に任せ、自身は中島城へ入り東条城の攻略に専念しますが、吉良義明の軍が三河上野城を包囲すると、その援軍として深溝城より松平伊忠が出陣。
松平好景が深溝城へと戻る事になります。
吉良義明はこの隙を突いて中島城へと攻撃をかけると、松平好景は50騎余りで敵兵を蹴散らしますが、善明堤で伏兵に取り囲まれ討死を遂げます。
後を継いだ松平伊忠は軍略に優れた人物で、永禄7年(1564年)の吉田城攻略、永禄12年(1569年)遠江掛川城攻め、元亀元年(1570年)姉川の戦い、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い等、数々の合戦に従軍して活躍。
天正3年(1575年)長篠の戦いで松平伊忠は酒井忠次と共に鳶ケ巣山(とびがすやま)砦を攻撃。
激戦のすえ守将の武田信実(たけだ-のぶざね)を討ち取りましたが、小山田昌行(おやまだ-まさゆき)の部隊に包囲され討死してしまいました。
4代目松平家忠(まつだいら-いえただ)は天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、武蔵忍城に1万石で入城し、深溝の地は吉田城の池田輝政と岡崎城の田中吉政らによって分割統治される事になります。
松平家忠は築城の名手として浜松城や駿府城、江戸城などの普請を行った他、天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)までの17年間を書き記した『家忠日記』の著者としても有名で、当時の政治情勢だけでなく天候などの日常生活を知る事ができる文献として現代に伝わっています。
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慶長5年(1600年)徳川家康は会津の上杉景勝攻めのため、伏見城には鳥居元忠を主将として松平家忠、内藤家長を残して多くの武将を従え関東へ進軍。
その後石田三成が挙兵し伏見城は落城。
松平家忠らは城と命運を共にしました。
徳川家康に従って会津まで従軍していた5代目の松平忠利(まつだいら-ただとし)は家康から常陸国で大幅加増を打診されましたが、これを断り、1万石の深溝西郡藩が成立。
慶長17年(1612年)に3万石に加増され吉田城に移ると深溝城は廃城となりました。
城跡と関連施設
推奨訪問ルート(徒歩約1時間30分)
JR三ヶ根駅・本光寺・幸田町郷土資料館・深溝城城址碑・土塁跡・兵九下・長満寺・JR三ヶ根駅
JR三ヶ根駅東口を出て、国道248号線を渡りそのまま300m程進むと、正面に電波塔が見えてくるが、その手前の交差点に右に本光寺、左折郷土資料館の案内板があるので、看板に従って右に進むと本光寺が見えてきます。
本光寺はあじさい寺として有名だが、深溝松平家は三河刈谷、丹波福知山、肥前島原、下野宇都宮など転封を続けても死後は本光寺へ埋葬を行っており、十九代に及ぶ人々が眠っています。
先程の交差点から150m程進むと幸田町郷土資料館があります。
小さな資料館ながら深溝城の模型が展示されている他、三河地震の資料など地域資料は充実しています。
資料館を過ぎてすぐ左に下の道に降りる階段がありますので、階段を降りて突き当りの道を右に曲がり、交差点を超えて道なりに真っすぐ150m程進むと右手に深溝城の城址碑が立てられています。
城址碑から手前の交差点に戻り、交差点を左折して80m程進むと左手の田圃の向こう側が小高くなっており、深溝城の土塁跡と言われています。
そのまま100m程進んだ先に左に入る路地がありますので、その先30m程に兵久下の石碑と看板が立てられています。
現在は深溝城の搦手と長満寺の看板ですが、3年前までは「兵九下」地名の由来の看板でした。
以前の看板
路地を真っすぐ進み、突き当りの道を左に曲がり80m程進むと大庭氏の菩提寺である長満寺があります。
700年近い歴史を持ち、日蓮宗のお寺として三河地区では最古の歴史を誇るお寺です。
長満寺の前の道を進むと国道248号線に出ますので、左に曲がるとJR三ヶ根駅前に戻る事ができます。
その後の歴史と現在
寛永元年(1624年)京都所司代などを歴任するなど徳川家康の信任も厚かった板倉勝重(いたくら-かつしげ)が死去すると、次男の板倉重昌(いたくら-しげまさ)は加増を受け1万5千石を受け再び深溝藩が立藩。
深溝城跡に陣屋を構えた物の、子の板倉重矩(いたくら-しげのり)が三河中島に藩庁を移したため深溝藩は廃藩となりましたが、弟の板倉重直(いたくら-しげなお)が8千石の旗本として深溝陣屋を相続。
深溝陣屋は幕末まで続き、明治元年(1868年)の陣屋廃止に伴い建物は撤去されました。
この時、陣屋門が幸田町六栗の民家に移築されています。
深溝城城址碑
額田郡幸田町大字深溝里前
本光寺
額田郡幸田町大字深溝字内山17
幸田町郷土資料館
額田郡幸田町大字深溝清水36-1
長満寺
額田郡幸田町大字深溝誉師16
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(寄稿)だい
・三河・長沢城 ~松平氏と関口氏の奇妙な縁~
・三河・藤井城 ~藤の花のような清水~
・形原城 ~悲劇も戦国の習い~
・岡崎城とは 天下の将軍「徳川家康」ここに生まれる
・松平家忠の解説 家忠日記の著者【伏見城で討死】
・徳川家康・三河統一の戦い「善明堤の戦い」松平好景の討死【どうする家康】「藤波畷の戦い」
・松平忠定「深溝城」松平伊忠のちょこっと解説~深溝松平氏
・日本全国の城跡オリジナル地図
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