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三河・金谷城の解説 ~TOYOTAの中心地・剣豪の城~


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三河・金谷城とは

歴史
金谷城(かなや-じょう)は鎌倉時代から中条(ちゅうじょう)氏の居館として存在していましたが、延慶2年(1309年)に中条景長(ちゅうじょう-かげなが)の手によって軍事目的の城館として本格的に築かれた城です。

中条氏は古代末期から中世のはじめ、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団である武蔵七党の一つである横山党の出とされます。
武蔵七党の数え方は一定しませんが、横山党の他には、野与党・村山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられ、その武士たちは弓馬に通じており坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称されました。


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横山氏は小野篁(おの-たかむら)の子孫である小野孝泰(おの-たかやす)が武蔵の国横山郷に土着し、その息子が横山義孝(よこやま-よしたか)を名乗った事が始まりとされます。
横山義孝の孫は埼玉郡成田を所領として成田大夫を称し、一族は源義朝(みなもとの-よしとも)源頼朝(みなもとの-よりとも)父子に仕え、側近として活躍しており、成田(中条)家永(なりた-いえなが)の代に本姓の藤原氏を称して中条氏を名乗りますが、叔母が源頼朝の乳母だった事から不遜な態度も多く、やがて幕府からの出仕を停められてしまいます。


勝手神社縁起

蟄居の身となった中条家永は自らの行いを悔い、建久6年(1195年)に行われた源頼朝上洛の随兵に召し出されて幕府の信頼を回復。
承久の乱の際は大江広元(おおえ-ひろもと)と共に鎌倉の留守居役を務め、その功により尾張守護と高橋荘の地頭職を得る事になり、嘉禄元年(1225)に評定衆が定められると、三浦義村らとともに評定衆に登用され「御成敗式目(貞永式目)」制定時には評定衆十一人のひとりとして連署もしています。

中条家永の子孫である中条景長(ちゅうじょう-かげなが)は延慶二年(1309年)に三河国の代官となり挙母へ赴任し、代々支配してきた高橋荘に軍事用の居城を築いたと言われ、これが現在の金谷城になります。
建武2年(1335年)中条景長は矢作合戦で新田義貞(にった-よしさだ)の軍と戦い負傷。
弟の中条秀長(ちゅうじょう-ひでなが)に家督を譲り、中条秀長は足利幕府で重きをなした後、出家して伊保古城に隠棲する事になりました。
家督を継承した中条景長の嫡男、中条長秀(ちゅうじょう-ながひで)は剣豪としても知られており、家伝の中条流剣法に念流の妙味も加え、中条流中興の祖と言われるようになり、その秘伝は富田勢源(とみた-せいげん)へと伝えられ、富田流と呼ばれ戦国時代には宮本武蔵と戦った佐々木小次郎も中条流の流れを汲む剣士として知られています。


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永享四年(1432年)中条氏は将軍足利義教(あしかが-よしのり)から咎を受けて所領没収の処分を受けます。
『満済准后日記』によれば、将軍拝賀の供奉をした中条判官は、晴着にふさわしくない衣装であったことを咎められて面目を失い、高橋荘三十六郷は三河守護の一色氏と東条吉良家に分与され、尾張海東郡は尾張守護の斯波氏に与えられましたが、後に高橋荘は子孫へ戻され挙母地区は中条氏の支配が続いていきました。

室町幕府が崩壊の兆しを見せる中、中条氏は西三河支配を目指す安祥城(あんしょう-じょう)主である松平親忠(まつだいら-ちかただ)との争いは激しさを増し、伊保古城(いぼ-こじょう)の三宅氏、寺部城(てらべ-じょう)の鈴木氏、八草城(やぐさ-じょう)の那須氏、上野城(うえの-じょう)の阿部氏らを率いて明応2年(1493年)に井野田の地で松平郡と戦うも敗北を喫します。
これにより中条氏の勢力は衰退の道をたどり、駿河の今川氏の侵攻を受けた後、永禄元年(1558年)に岡崎城(おかざき-じょう)の松平元康(まつだいら-もとやす)に攻められて降伏。
永禄4年(1562年)には織田信長(おだ-のぶなが)の侵攻に耐え切れず、一戦もせずに金谷城を明け渡して配下の森豊後守の居城である森城へ逃げ込みました。
これによって中条氏の長年にわたる挙母地区支配は終わりを告げる事になりました。

金谷城は佐久間信盛(さくま-のぶもり)が城主となり、永禄11年(1568年)には余語正勝(よご-まさかつ)が城代を努めますが、その後は徳川氏の支配下に置かれました。
天正18年(1590年)には岡崎城主となった田中吉政(たなか-よしまさ)の支配下となりましたが、慶長6年(1601年)には再び徳川氏のものとなり、慶長9年(1604年)には三宅康貞が1万石で拳母へと入部しました。
三宅氏は元々中条氏の被官でしたが徳川家康に臣従して武功を重ね、故郷に藩主として返り咲いた形となりました。
しかし、藩庁とすべき金谷城は打ち続いた戦乱で荒れ果てており、建物は腐り果てて雨漏りだらけだったと伝わっています。
このため、三宅康貞(みやけ-やすさだ)は金谷城を廃して北1kmほどの地に左久良城(桜城)を築いて陣屋として拳母を支配しました。

寛延2年(1749年)拳母藩主本多氏の遠江相良転封により、上野安中藩から内藤政苗(ないとう-まさみつ)が2万石(遠江と美作に一万石)で入封します。
内藤政苗は挙母城の築城を計画して幕府から四千両を借用、宝暦6年(1756年)から工事を開始します。
しかし洪水や一揆などで工事は遅々として進まず、安永8年(1779年)に2代藩主内藤学文(ないとう-さとふみ)は当地への築城を断念して童子山への築城を幕府に願い出、新城(七州城)は天明5年(1785年)に完成しました。
築城半ばで廃城となった城は桜城と呼ばれ、現在は櫓台の石垣が市街地の中に残るのみです。


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~交通アクセスと登城~
金谷城は、現在の愛知県豊田市金谷町一帯と言われており、勝手神社境内に城址碑が立てられています。
公共交通機関で訪問する場合は、名古屋鉄道三河線上拳母駅から、北に向けて徒歩3分程。
駐車場はありませんので、自家用車で訪問の際は近隣で車場の確保が必要です。

その他関連施設等
●桜城


豊田市元城町1-51
桜城址公園の中に石垣が残されています。

●七州城


豊田市小坂本町7-90
拳母城跡として櫓が建てられている他、寺部城にあった又日亭が移築されています。

(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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