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相模・厚木城 (厚木館) 厚木氏の館跡

相模・厚木城 (厚木館)

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相模・厚木城(あつぎ-じょう)は、神奈川県厚木市旭町2丁目にある平城(館跡)で、厚木館・厚木氏館とも言います。
厚木は市街地開発が進んでいるため、正確な城跡は不明ですが、旭町2丁目にある智音神社が、厚木館跡ともされます。
遺構は残されていませんが、ご紹介してみます。

厚木氏は、戦国時代に下野宇都宮氏の家臣で真岡城主・芳賀高経の家来だった、芳賀一族の芳賀高義の3男・芳賀朝高が、下野・厚木城である厚木氏の租とされます。
主君・芳賀高経が、壬生綱房の対立からか、従っていた宇都宮城主である宇都宮興綱から離反しようとします。
恐らくは1540年前後のあたりの話かと推測されます。
この時、厚木朝高(あつぎ-ともたか)は、謀反を起こさないよう、説得したそうですが、失敗したため出奔したと言います。
そして、小田原城の北条氏を頼ったようで、与えられた領地が、相模・厚木城と言う事らしいです。
厚木朝高は、その後、結城晴朝に従って、下野・厚木城に復帰するも、水谷勝俊の攻撃を受けて没落したとあります。


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ただ、下野・厚木城から相模にやってきて、相模・厚木城主になったと言う話は、あまりにも、出来すぎのように感じます。
あつぎと言う地名の初見は、1338年に、夢窓疎石が、足利尊氏の重臣・高師直にあてた書状の中に「相州厚木郷」とあります。
要するに、戦国時代より前から、厚木郷はあった可能性が高い訳です。
下野の厚木から北条家に仕官したから、相模・厚木を与えられたと言うのは、話がうますぎるように感じます。

1440年、結城合戦で結城勢として討死した厚木掃部介と言う武将がいます。
厚木掃部介(あつぎ-かもんのすけ)は、厚木郷を知行していたともされます。
結城合戦は、室町幕府と関東諸豪族との戦いですので、相模から参じたことは、充分にあり得ます。
この系統から考えますと、繋がっているとは確証が全くないですが、平安時代中期に、平忠輔が厚木の領主だったともされます。
平忠輔は、平良文の子ですが、早くに死去したようで、弟・平忠光が養子となって「嫡流」として家督を継いだようです。
父とされる平良文(たいら の よしふみ)は、923年に、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて、相模?・村岡城に入ったともされます。
厚木館主だったとも考えられる、長男・平忠輔は早世しました。
しかし、平将門の娘・春姫を正室とした3男・平忠頼からは、千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏など、5男・平忠光からは三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏、大庭氏、長尾氏、安積氏など、のち鎌倉幕府成立に尽力する、平氏である関東の武家・坂東平氏となりました。
このように、相模・武蔵のほとんどを領したと推測されることから、平忠輔のあと相続した弟・平忠光の系統(一族など)が「厚木氏」として、残った可能性は考えられます。
平忠光の子・平忠通(たいら の ただみち)/村岡忠通は、相模・村岡城主であり、三浦氏・鎌倉氏の祖です。


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これら平安時代の実情を考えますと、平安時代末期には横山党小野氏が進出しているため、逆に、平安時代の厚木郷に厚木氏がいたとした場合、その一族が、下野に領地を得ていて、厚木氏の血脈を繋いでいた可能性もあるでしょう。
厚木氏の宗家とも言えるのが、厚木掃部介だったのかも知れません。
そうなると、分家の厚木朝高は、相模にやってきて、もともといた宗家筋である相模・厚木氏の世話を受けたとも推測できます。
江戸時代後期には、下野・烏山藩の飛び地が、相模・厚木であり、厚木陣屋が、厚木神社付近に置かれたようです。

厚木館跡とされる智音神社(ちおんじんじゃ)は、もとは「智音寺」と言う寺で、戦国時代の天正年間(1573年~1593年)に開山しました。

相模・厚木城

徳川家康が江戸城に入ると、1591年、寺領3石の御朱印状を受け、牛頭天王社(厚木神社)の別当寺(管理担当)を務めていました。
智音神社の墓地の奥にある小さな御堂には、五輪塔2基があり、那須与一の墓ともされます。
ただし、城郭大系によると、延文年間(1356年〜1361年)と、貞治年間(1362年〜1368年)の年号が刻まれているようですので、これこそ、厚木氏の墓かも知れません。

寺から神社になった経緯は、明治元年に、天皇の神権的権威を高めるため「神仏分離」(しんぶつぶんり)と言って、寺院は、神社になるか?、寺になるか?のどちらかの選択を迫られた際に、智音寺は「廃寺」になる道を選択しました。
そのため、広い敷地(境内とも言える)には、個人の墓だけが、たくさん残された模様でして、神式葬祭場にはなっていたようです。
その後、神式葬祭場が、智音神社に発展したと言う事になり、墓地もそのままあるのです。

例えばですが、大山(おおやま)に阿夫利神社がありますが、もともとは、大山寺の不動堂でした。
しかし、明治の神仏分離によって、不動堂は破却され、新しく阿夫利神社・下社となり、大山祇大神(オオヤマツミ)を祀りました。
そのあと、現在、大山寺がある場所に、不動堂(本堂)が再建されていると言う事になります。


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厚木城(厚木館)への交通アクセス・行き方ですが、小田急線の本厚木駅から徒歩5分ほどの場所になります。
駐車場は、門から入ったところに、止められそうですが、門の幅も狭いことから断念して、有料Pに止めてから訪問しました。
当方のオリジナル関東地図にて、入口をポイントしておきますが、道路は結構、狭いです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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