岐阜県

美濃・金山城(兼山城) (続日本100名城) 斎藤正義も

美濃・金山城(兼山城)

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美濃・金山城とは

美濃・金山城(かねやま-じょう)は、岐阜県可児市兼山にある標高277mの古城山に築かれた山城で、比高は160mとなかなか堅固です。
国指定史跡になっているほか、続日本100名城にも選ばれました。
戦国時代には兼山城と書くことが多いですが、他の別名としては、鳥峰城、鳥ヶ峰城とあります。
山頂には天守台があり、本丸、二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪など連郭式に配置されています。


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最初の築城は戦国時代とされ、1537年、稲葉山城主・斎藤道三の命にて近隣の14諸将が築城し、斎藤正義が2000の兵と入ると烏峰城と命名されて、東美濃への足掛かりとなりました。

斎藤正義(さいとう-よしまさ)と言う武将は、関白・近衛稙家の子ですが、身分が低い女性が産んだようで、比叡山にて僧侶となっていました。
その時、従っていた家来・瀬田左京の姉が、斎藤道三の愛妾となった縁で、斎藤正義は斎藤道三の養子になったと言う事になります。

1532年、斎藤正義は16歳で元服し初陣を飾ると、土岐頼純と戦っています。
そして、1538年(天文7年)に斎藤正義は美濃・金山城に入り、自ら大納言を称しました。

しかし、斎藤正義は、養父・斎藤道三の言う事を聞かなくなったようで、1548年2月、久々利城主・久々利頼興に館へ招かれると暗殺されました。享年33歳。
麓の浄音寺に斎藤正義の墓があります。

斎藤正義の墓

烏峰城(美濃・金山城)では、斎藤正義の配下の者が籠城したようですが、久々利頼興が攻撃して陥落させました。
そして、美濃・金山城には、久々利氏の一族・土岐十郎左衛門が入っています

美濃・金山城

1565年、織田信長が東美濃に侵攻すると、森可成が城主となって、美濃・兼山城と改称しました。
森可成は、1568年、織田信長が上洛した際には、柴田勝家らと蜂屋頼隆、坂井政尚らと、三好三人衆の岩成友通が抵抗した勝竜寺城の戦いに勝利し、近江・宇佐山城に移りました。

兼山城

しかし、1570年に、浅井長政朝倉義景の連合軍が近江・宇佐山城を攻め、宇佐山城の戦いとなっています。
家臣の各務元正、肥田直勝などが奮戦し、宇佐山城は守り抜きましたが、織田信長の弟・織田信治、青地茂綱と共に森可成は討死しました。享年48。

美濃・金山城(兼山城)

その後、次男・森長可が家督を継ぎ、美濃・兼山城主となり、槇島城の戦い、長篠の戦い、美濃・岩村城の戦い、三木城の戦いなどで活躍しました。
また、森長可は、城下町を区画整理し、六斎市の開催など産業振興にも努めています。
1582年、甲斐攻めにおいては、団忠正と活躍し、信濃・松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、信濃・飯田城の保科正直を敗走させ、高遠城の戦いでも戦功がありました。

美濃・金山城

この功績により、20万石となって海津城を与えられると本拠を移し、抵抗を続けた飯山城稲葉貞通を攻略しています。
美濃・兼山城は、森成利、すなわち森蘭丸に5万石で与えたようですが、織田信長の命だった可能性もあります。

美濃・金山城

そして、柴田勝家が越中・魚津城を攻めている隙を突いて、上杉景勝春日山城に肉薄したところ、明智光秀本能寺の変を起こします。
本能寺では、弟・森蘭丸などが、織田信長と運命を共にしました。

美濃・金山城

また、森長可に新しく従っていた信濃の国衆らは出浦盛清以外、ほとんど寝返り、森氏は大ピンチとなりました。
しかし、人質の妻子らを連れて、木曽・福島城経由でなんとか、金山城に戻っています。

美濃・金山城からの展望

ところが、美濃でもの肥田忠政・久々利頼興らが裏切、小里光明妻木頼忠遠山友忠・斎藤利堯らも敵対してきたとこから、森長可は、各個別に攻略していきました。
また、1583年1月には、斎藤正義の孫・加木屋正則を動かして、金山城の杉が洞口にて久々利頼興を討ち果たし、仇(かたき)を取らせる形で排除しました。

美濃・金山城からの展望

その結果、根本城の若尾元昌、土岐高山城の平井光村、妻木城の妻木頼忠らは戦わずして恭順を示しています。
更には、苗木城の遠山友忠を攻略するなど、勢力を挽回しています。
しかし、1584年、小牧・長久手の戦いにて、徳川勢の井伊直政と戦って森長可は討死し、森可成の六男・森忠政があとを継ぎ、美濃・金山城主を務めました。

美濃・金山城(兼山城)

天守としては、2重2階層塔型の櫓があったようですが、別に小天守もあった模様です。

美濃・金山城(兼山城)

1600年、関ヶ原の戦いの前に、森忠政は川中島・海津城に13万7500石で移ったため、美濃・金山城は廃城になったようです。
そして、金山城の天守櫓と家臣・長屋の古材などは、兼山湊から木曽川の水運で運ばれ、石川貞清犬山城が改修されたようです。

なお、浄音寺の山門は、金山城の裏城戸門を移築したものとされます。

金山城の裏城戸門

美濃・金山城への交通アクセス

美濃・金山城への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、かなり不便です。
明智駅からYAOバス(やおバス)の八百津方面に乗車し、城戸坂バス停にて下車して徒歩約3分で登城口となります。
クルマの場合には、無料駐車場もいくつかあり、訪問するのは便利ですが、道路は狭いので運転にはご注意願います。
本丸に一番近い駐車場の場所は、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。


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そこから美濃・金山城(兼山城)の見学所要時間は30分ほどと言う感じです。
麓からじっくり見学しますと、もっと時間を要します。
そうそう、斜面ではイノシシが歩いていました。

美濃・金山城(兼山城)

続100名城のスタンプがある場所は、可児市観光交流館になります。
お城の来場記念の御朱印も可能なようです。

可児市戦国山城ミュージアムなどもセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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