岐阜県

大桑城 土岐頼純 美濃・土岐氏最後の本拠地

大桑城

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大桑城(おおが-じょう)は、岐阜県山県市にある標高408mの古城山(金鶏山)にある山城では、比高は345mと非常に堅固です。
最初の築城としては、清和源氏甲斐源氏の一族である逸見義重が、1221年、承久の乱の戦功にて大桑郷を与えられ、子の大桑又三郎が1250年頃に美濃・大桑城を築いたとされます。
もちろん、詰の城だったのでしょう。

その後、1496年に、美濃守護・土岐成頼の3男である土岐定頼が改修すると、大桑兵部大輔と称して居城にしたとされます。
そのあと、土岐頼武の子・土岐頼純と、土岐頼武の弟・土岐頼芸が本拠としました。


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土岐頼武と弟・土岐頼芸は、父の存命中から家督争いを起こしており、1517年、1518年と合戦となると、敗れた土岐頼武は、美濃守護代・斎藤利良と共に越前・朝倉氏を頼って逃れています。
この亡命中に、朝倉貞景の娘と結婚して、1524年に土岐頼純をもうけています。
その頃には、朝倉勢3000の兵を借りて、美濃を掌握していたため、弟・土岐頼芸はが再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠し、長井規秀(斎藤道三)を重用しました。
そして、1350年、武芸谷の汾陽寺に逃れていた兄・土岐頼武は再び越前に逃亡しています。
その後、再び朝倉勢の援軍を得て、土岐頼武は大桑城に本拠を置きましたが没したとされます。
そのため、美濃・土岐氏の内紛は、土岐頼武の子・土岐頼純と、土岐頼武の弟・土岐頼芸との対立にかわりました。

大桑城

土岐頼純(とき-よりずみ)は、大桑城にて対抗していましたが、1543年から祐向城、別府城などの支城が陥落して劣勢となり、越前に逃亡しました。
1544年には、朝倉孝景と尾張・清洲城主の織田信秀の支援を受けて、美濃へ入ろうとしましたが、斎藤道三が察知していたようです。
斎藤道三は、稲葉山城に籠城しましたが、難攻不落の城と言う事もあり、朝倉勢が撤退しようとしたところを斎藤勢が急襲した大敗しました。
そのため、土岐頼純は朝倉勢と一緒に再び越前に逃れています。

なお、斎藤道三が従っていた、土岐頼芸も、弟・土岐頼満が斎藤氏によって毒殺されたため、次第に対立していました。
そのため、土岐頼芸も子の土岐頼次と一緒に尾張に追放されています。
ただし、土岐頼芸は織田信秀の支援を受け、越前の土岐頼純とも連携すると、美濃守護に復帰しています。


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そして、室町幕府や六角定頼の仲介もあり、1546年、土岐頼純は、土岐頼芸・斎藤道三と和睦し、土岐頼芸は守護の座を譲りました。
土岐頼純は、菩提山城を経由して、大桑城に復帰して美濃守護となりましたが、このとき、正室に斎藤道三の娘を迎えています。
この斎藤道三の娘は、織田信長に嫁ぐ前の濃姫(帰蝶)と考えられています。
翌年の1547年、土岐頼芸と土岐頼純の2人は、大桑城にて旧臣らに加勢を促して、斎藤道三を倒そうとします。
そして、土岐頼純は急死しました。享年24。
斎藤道三が暗殺したとも言われますが、斎藤道三が攻撃して討死した可能性もあります。
いずれにせよ、大桑城は焼失し、嫁いでいる意味が無くなった濃姫(帰蝶)は稲葉山城に戻りました。

大桑城

1548年、織田信秀と斎藤道三も和解すると、土岐頼芸は居場所を失い、関東に逃れています。
そして、1549年、濃姫(帰蝶)は織田信長の正室として再嫁したと言う事になります。
美濃・明智城主の明智光安が仲介(交渉)したとされています。

大桑城跡

こうして美濃は斎藤道三が手に入れ、のち嫡男・斎藤義龍に家督を譲って、鷺山城に隠居しました。
しかし、1555年、斎藤義龍は、2人の弟を殺害し、父・斎藤道三も排除しようとします。
そのため、斎藤道三は、大桑城に入って家臣らに協力を呼び掛けるのですが、多くの国人は、斎藤義龍に味方しました。
そして、1556年、長良川の戦いにて、斎藤道三は討死したのです。

大桑城跡には、土塁、石積、堀切などの遺構が残されています。

大桑城

落城した際、家宝の金の鶏を井戸に沈めたとの伝説があることから、金鶏山とも呼ばれる所以です。
また、大桑城の本丸跡には、ミニチュアの大桑城(模擬天守閣)がありミニ大桑城と呼ばれているようです。

大桑城の麓には、谷をふさぐように伸びた「四国堀」という土塁と堀が残っています。

四国堀

今回は、熱中症警戒で登りませんでしたが、整備もされていて、案内もたくさんあるようですので、ありがたいですね。
岐阜を展望できるため、登山・ハイキングコースとしても親しまれているようです。

四国堀と言うのは4カ国の兵を動員して造成したから、そのような名前になったとされます。
ただ、この土塁と堀があると言う事は、一乗谷城や、丹波・八上城のように、谷間に屋敷や城下町を築いて中心とし、山城は詰めの城と言う感じにした模様です。
となると、城下町も、かなり栄えていたことと存じます。


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無料駐車場もある標高も高い新登城口から本丸までは、徒歩15分くらいですが、そこまでの道路は細いです。
四国堀の場所も含めて、当方のオリジナル地図にてポイントしてありますので、よければ、ご参照願います。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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