丹後・有吉城は京都府与謝野町にある山城ですが、加悦城(かや-じょう)・安良山城(安良城)と言う別名があり、これら3つの城名が、いずれもよく使われていると言う印象です。
ただし、山頂の石碑では「有吉城」になっているとのとこです。
最初の築城は不明ですが、戦国時代、1505年に一色義有が丹後守護に補任されますが、1506年、管領・細川政元によって解任となります。
そして、細川政元の命を受けた細川澄之、細川澄元、細川政賢、赤沢朝経、三好之長、香西元長、武田元信らが丹後に進入しました。
このとき、一色義有は今熊野城、延永春信は阿弥陀ヶ峰城、石川直経は加悦城にて、それぞれ籠城しています。
1507年になって、細川政元が暗殺されると、細川勢の赤沢朝経、古市丹後らを撃退し、なんとか凌ぎましたが、1512年、一色義有は病死しました。
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そのあと丹後守護を継いだのは、斎藤道三の側室である深芳野の父ともされる一色義清です。
しかし、すでに一色氏による影響力は弱まっており、1516年、丹後は3任の奉行が統治するようになります。
このとき、加悦城主としては石川直経、大久保山城主・小倉播磨守、久美浜城主・伊賀右京亮の3名が丹後国を三分割支配しました。
一色義清に従う加悦城の石川直経と、三河の一色九郎を立てた丹後守護代(丹後・府中城主)の延永春信が争っていましたが、この内乱に乗して、若狭守護で後瀬山城主の武田元信が丹後に侵入します。
※丹後・府中城は、今熊野城も含む総称で、屋敷は宮津市立府中小学校付近か?
石川直経は敗北して逃れ、1517年、延永春信が若狭に侵攻すると、若狭・高浜城主の逸見国清(逸見河内守?)が、武田元信に謀反を起こして延永春信に味方しました。
このとき、武田元信は室町幕府に救援を求め、石川直経、朝倉孝景、一色義清、細川高国、足利義種、朽木種広らが加勢したため、延永春信は倉橋城にて籠城するも敗走し、一色九郎とともに宮津城に落ち延びました。
延永春信は降伏・開城して助命されたとも、倉梯城にて籠城するも討死したともありますが、以後、その名が出て来なくなりました。
一色義清と石川直経の動向は、1540年頃からよくわかっていませんが、丹後には織田勢の息が伸びてきます。
一族と見られる丹後・亀島城主の石川浄雲斎は、1579年、細川藤孝・明智光秀の軍勢に降伏しました。
1580年、細川藤孝・細川忠興は、丹後一国を与えられて、宮津城と丹後・田辺城を築城・改修しています。
なお、加悦城(安良城)は細川家の重臣・有吉立言(有吉将監立言)が入って、城下町も整備しました。
ただし、丹後の国人衆の一部は、引き続き抵抗しており、幾地城主の石川秀門も、1582年、細川勢の攻撃を受けて討死しています。
1600年、関ヶ原の戦いのあと、細川家は、豊前・中津城に移りましたが、丹後・中山城主にもなっていた有吉立言とその子・有吉立行(有吉四郎右衛門立行)は、豊後・木付城にて15500石となっています。
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加悦城(有吉城・安良山城)への交通アクセス・行き方ですが、京都丹後鉄道宮津線の与謝野駅からタクシーになります。
4月~12月は、レンタサイクル・リンクル与謝野(貸自転車)も与謝野駅にて可能です。
加悦城(有吉城・安良山城)への登城は、麓から登る事15分ほどとの事です。
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