京都府

丹後・中山城 沼田清延(沼田延元)と女武将・沼田麝香も

丹後・中山城

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丹後・中山城(なかやま-じょう)は、京都府舞鶴市中山にある標高66mの山城で、比高は65mになります。
福知山城のほうから流れる由良川の河口域にあり、本丸の幅は30mほどあるようで、一色氏の本拠地だった建部山城の支城でした。
築城年代は不明瞭ですが、一色左京大夫、沼田幸兵衛、などが丹後・中山城主として伝わります。
この単なる支城のひとつになる中山城が有名なのかは、1579年に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、建部山城を攻撃したことにあります。


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丹後の事情に明るい松井康之、有吉将監の作戦にやられて、建部山城を捨てて、山名氏を頼ろうとした、一色義道は、大雲川(由良川)を下ってうまくこの中山城へとまずは退避しました。
しかし、細川忠興細川興元、松井康之、有吉立言(有吉将監立言)など14700の軍勢が二手に分かれて中山城に攻め寄せましたが、一色義道を筆頭に大江越中守・高屋駿河守・近藤兵庫・原紀伊守・金屋伊豆守・山口弾正・荒川帯刀・赤井五郎左衛門・木村長門守・氏家大和守・杉山出羽守・垣見筑後守・白杉主税介・横田伝太夫らは約2ヶ月の籠城を続けたと言います。
焦った細川家は、中山城主・沼田幸兵衛に密使をおくり内通させると、夜陰に乗じて中山城の城内に火をつけさせた言います。
そこを、細川勢は一斉に攻撃したため、混乱して行き場を失くした一色義道と主従38騎は、もはやこれまでと、中山城の由良川畔にて自刃したとされます。
下記の写真は手前の低い山が丹後・中山城で、奥の高い山が建部山城と言う事になり、そんなに離れていません。

丹後・中山城

一色義道の子である一色義定(一色義俊)は、大船山峠に若武者100名を率いて、遊軍として潜んでいたようで、一色義定は、弓木城へと逃れて、引き続き細川氏と台頭に戦ったともされます。
また、自刃する前に、家督を一色義定に譲ったとも言われています。

しかし、細川家の記録によると、沼田氏ではなく、中山城主は貫幸兵衛でして、この貫氏は、細川勢と果敢に戦い討死したとあり、裏切っていません。
一色義定も一緒に討死したとあり、この細川家の記録の方が正しいようにも感じます。

その後、細川家が支配すると、家臣の沼田清延(沼田勘解由左衛門清延、沼田延元)が中山城に入り5000石となりました。

丹後・中山城

この沼田清延は、もともと足利義昭に仕えた若狭沼田家の熊川城主で、領地を失い近江に逃れたあと、細川家の客分になっていたともされます。
先祖は、上野・沼田が出自で、鎌倉時代に分かれて若狭に移った若狭・沼田氏の一族と言う事になります。
若狭・熊川城が陥落して領地を失った際に、同じ一族と推測できる沼田祐光は、陸奥・弘前城津軽為信に仕官すると軍師として活躍しています。
この沼田祐光と沼田清延(沼田延元)は「兄弟」の可能性も捨てきれません。

沼田清延(沼田延元)の妹・沼田麝香(ぬまた-じゃこう)は、1562年頃に細川藤孝の正室となっており、1563年に細川忠興を産んでいました。


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少し、話を戻しますが、一色義道が中山城にて命を落とした際に裏切ったとされるのも、細川氏が勝利したあとに中山城主になったのも、両方とも沼田氏です。
しかも、細川氏の仕えていたのは、沼田幸兵衛清延とする記述もあります。
となると、一色氏の記録にある、沼田氏が裏切ったと言うのは、デタラメの可能性も捨てきず、実際には、沼田氏はあとから入った城主なのかも知れません。
となると、細川家の記録にある、貫幸兵衛が一色家から城主に任命されていたと考えるが正しいのかも知れません。

丹後・中山城

1600年、関ケ原の戦いの際には、沼田清延の子・沼田延元(沼田小兵衛延元)は、宮津城主・細川忠興に従って、徳川家康の会津征伐軍に合流しています。
そのため、中山城を不在しているなか、西軍の軍勢が送られ、丹後の留守を守っていた細川幽斎は、田辺城に残っている兵を集めて籠城しました。

このとき中山城は焼き払われて、城兵は田辺城に駆けつけたと言います。
また、田辺城の戦いでは、沼田麝香も、具足を付けて、夫・細川幽斎とともに奮戦したとあります。
女武将がここにもひとり、おられましたね。

関ヶ原のあとには、細川忠興が豊前・中津城に39万石にて転封となったため、沼田氏も従い、丹後・中山城は廃城となりました。


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沼田麝香は、細川ガラシャの死に衝撃を受けて、キリスト教を信じるようになり、のち「細川マリア」と言う洗礼名を受けています。

なお、沼田延元は細川家の家老として門司城主となっており、有名な巌流島決闘のあと、佐々木小次郎の弟子らに命を狙われた宮本武蔵は、門司城の沼田延元に助けを求めました。
沼田延元は、鉄砲隊をつけて送り届けています。

なお、昔からあった登城路は、山肌の改良工事で道が無くなっているようで、南の曲輪群も失われ、城山神社も麓に移転しています。。
そのため、現在、登る場合には、廃校になった由良川中学校の南側の公民館付近から、丘陵北端へつ苦る旧墓地へ登る道から登るようです。
駐車場は無いようです。(自己責任です。)

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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