若狭・高浜城(たかはま-じょう)は、福井県大飯郡高浜町にある平山城(海城)です。
日本海の高浜湾に着き出した、小さな半島の先端に築かれています。
最初の築城は、戦国時代の1565年で、逸見昌経が築いたとされます。
逸見昌経(へんみ-まさつね)の逸見氏は甲斐源氏の庶流であり、若狭守護で後瀬山城の武田信豊に仕えていました。
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1554年、細川晴元が若狭・武田氏に援軍を要請すると、逸見昌経らが丹波に出陣しましたが、三次長慶の家臣で、丹波・八木城主の松永長頼と戦うも敗れています。
1556年、武田信豊は次男・武田信方に家督を譲ろうとして隠居しましたが、嫡男の武田義統に家督を継承したため、若狭武田家は内乱となりました。
敗れて劣勢となった武田信豊は、近江に逃走しましたが、逸見昌経は主君に忠実だったようで、丹波の松永長頼から援軍を得て、武田義統に反抗を続けました。
こうして、逸見昌経はいわば独立勢力となり主家をしのいだようで、若狭水軍も率いました。
武田義統は一乗谷城主・朝倉義景の支援を受けたため、若狭・国吉城主の栗屋勝久と、高浜城の南方の山にある砕導山城に入った逸見昌経は、三好長慶の後ろ盾を得ます。
そして、まだ幼い武田義統の子・武田元明を擁立し、籠城しました。
1561年、武田義統は、朝倉勢と共にこの反乱を鎮圧したため、逸見昌経は領地を捨てて、松永長頼を頼ったようです。
そのあと、武田信豊と武田義統の親子は和睦しています。
1565年、逸見昌経は松永長頼の大規模な援軍にて、高浜に入ると旧領を奪還し、この時、若狭・高浜城を築いて本拠にしたと言う事になります。
そのあと、武田義統が1567年に病死すると、1568年、朝倉義景は若狭に侵攻し、若狭・国吉城、手筒山城などを落としました。
そして、後瀬山城を包囲すると、親戚・親類だから保護すると言う名目にて、武田義統の子・武田元明は一乗谷に連れていかれて、事実上、若狭は朝倉氏が支配することになりました。
逸見昌経は、引き続き三好長慶の援助を受けて、高浜城を維持していましたが、1570年、織田家の丹羽長秀が侵攻してくると、織田家に臣従しています。
そして、若狭衆の筆頭として織田信長の軍勢に加わり、各地を転戦しています。
1573年、越前・朝倉氏が滅ぶと武田元明は若狭に戻りましたが、逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤景久ら若狭衆は、後瀬山城の丹羽長秀の与力になっています。
そして、逸見昌経は高浜城5000石を織田家より安堵されました。
のち武田勢だった武藤友益が改易されると、石山3000石の加増を受けて8000石になっています。
1581年2月28日、織田信長の京都馬揃えにも参加した逸見昌経でしたが、3月26日に死去しました。
子がいましたが継承を許されず、遺領は、高浜城5000石が溝口秀勝に、若狭・石山城3000石は武田元明に分配されています。
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溝口秀勝(みぞぐち-ひでかず)は、丹羽長秀の家臣でしたが、その能力を認められて、織田信長の直臣になった形でした。
本能寺の変のあと、1583年に丹羽長秀が北ノ庄城に入ると、4万4000石となり、大聖寺城に移っています。
そのあと、高浜城には、山内一豊、木下利房(2万石)と続きました。
木下利房は1600年、関ケ原の戦いにて所領を失いましたが、大坂の陣にて戦功があり、備中・足守藩として復活しています。
その後の高浜城には、京極高次の重臣・佐々義勝が入っています。
この佐々義勝は色々な名前が別にありますが、武田義勝(津川義勝)とも言い、武田元明と京極竜子の間に生まれていた子です。
関ヶ原の戦いにて大津城を守った京極高次が、その功績にて徳川家康から若狭一国を与えられて小浜城を築城した際に、高浜城5000石となりました。
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江戸時代の1634年、川越城から酒井忠勝が1万石で若狭・小浜藩主になった頃、高浜城は廃城になったようです。
ただし、城跡には蔵が置かれ、高浜の統治を担った模様です。
現在、高浜城跡は散策路が設けられており、若狭湾を一望できる観光スポットにもなっています。
足利義満も絶賛したと言う「八穴の奇勝」と呼ばれる8つの洞穴のひとつ「明鏡洞」は、高浜町の名勝です。
高浜城への交通アクセス・行き方ですが、車の場合、城山公園駐車場(約100台)が利用できます。
高浜城の見学所要時間は、30分~50分ほどになります。
・明鏡洞 福井県高浜市の観光スポット 駐車場情報など
・若狭・小浜城 本丸と天守の石垣が残る小浜湾の海城
・後瀬山城 武田信豊・武田義統 若狭武田家の滅亡
・砕導山城とは
・若狭・国吉城(佐柿国吉城) 粟屋勝久とは
・丹波・八木城 丹波守護代の居城と内藤貞勝
・逸見昌経(祖は甲斐源氏)が築いた高浜城・足利義満も訪れた「八穴の奇勝」で策を練る
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