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竹田城の歴史
但馬・竹田城(たけだ-じょう)は、兵庫県朝来市和田山町竹田にある古城山(虎臥山)に築かれた山城で、標高は353m、比高は250mもある堅固な梯郭式山城です。
虎が臥せているように見える城域から虎臥城(とらふす-じょう)とも言いますが、他の別名としては安井ノ城とも言う国の史跡であり、日本100名城にもなっています。
また、高所に見事に築かれた石垣の壮観さから、日本のマチュピチュとも呼ば、天空の城とも呼ばれます。
更に雲海に浮かび上がる城郭は、近年テレビ番組などでも大変話題となりました。
そのためか、恋人の聖地にも選出されており、中国などの外国人観光客もたくさん訪問されます。
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撮影致しました、竹田城の写真と共にご紹介させて頂きます。
最初の築城は不明な点が多いですが、1431年に、但馬守護・山名宗全(山名持豊)が、赤松氏に対抗するために築いて、重臣の太田垣光継が安井ノ城主になったのが始まりとされます。
太田垣氏は垣屋氏・八木氏・田結庄氏とともに「山名四天王」のひとりでもある有力国人でした。
1441年には、嘉吉の乱(かきつのらん)が勃発し、但馬守護・山名宗全(山名持豊)が赤松満祐を討ち果たしています。
このとき、太田垣光景(おおたがき-みつかげ)は戦功があり、播磨国守護代を任じられて、竹田城を本拠としました。
戦国時代になると、1512年、太田垣宗朝ら山名四天王は、但馬守護・山名致豊から離反して、山名致豊の弟・山名誠豊を擁立し、但馬の領国経営の実権を握りました。
毛利家が台頭してくると、1573年、太田垣輝延(おおたがき-のぶてる)は降伏します。
しかし、1575年10月、丹波の赤鬼と言われた荻野直正が竹田城を占領すると、山名祐豊は織田信長に助けを求め、明智光秀が派遣されて第1次・黒井城の戦いとなり、荻野直正は黒井城に戻りました。
1569年、織田家の羽柴秀吉が但馬に侵攻すると山名祐豊や太田垣輝延らは織田信長に服従します。
しかし、毛利家の吉川元春は、但馬の国人衆を調略し、寝返らせます。
そのため、1577年、羽柴秀吉は上月城を攻め、別動隊となった羽柴秀長は、3000にて但馬に進軍し、岩洲城を攻略すると次いで竹田城に攻め寄せました。
竹田城では3日間戦闘があったとされる竹田城の戦いとなりますが落城し、太田垣輝延は織田家に従いました。
その後、竹田城には羽柴秀長(豊臣秀長)が入ったともされますが、引きあげたあとには太田垣輝延に任されていた模様です。
そして、1580年に再び羽柴秀長が6400を率いて但馬を攻めると、竹田城も降伏し、太田垣氏は没落しました。
有子山城に羽柴秀長が入り、竹田城は1万石として配下の桑山重晴に与えられています。
この桑山重晴(くわやま-しげはる)は、もともと丹羽長秀に仕えていましたが、1574年に羽柴秀吉の家臣に加わっていました。
1585年には、3万石となって和歌山城に移っています。
そのあと、竹田城には赤松広秀が入りました。
赤松広秀(あかまつ-ひろひで)は、龍野城主・赤松政秀の子ですが、本家とされた赤松義祐とは離れた分家となります。
小牧長久手の戦いなどで活躍したことから、2万2000石で竹田城に入りました。
築城当時は土塁で守られていた竹田城を、今に残る総石垣造の城に改修したとされるのが、この赤松広秀になります。
竹田城主として養蚕や漆器業などを奨励し、領民に慕われたと言います。
天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳がある山城です。
こんなにも壮大な石垣を、技術が発達した江戸時代ではなく、戦国時代後期に寸分の狂いもなく総石垣に作り替えられたのには驚かされます。
また、櫓や望楼型天守などの建物は20前後あったと推定されています。
その建物はすべて残っていませんが、高所にある石垣の縄張りは、とても素晴らしい空間です。
1600年、関ケ原の戦いにて、赤松広秀(斎村政広)は、石田三成方に味方して、細川幽斎の丹後・田辺城を攻めました。
しかし、関ヶ原で西軍が敗れると聞くと、一転して寝返り、鹿野城主・亀井滋矩と共に宮部長房の鳥取城を攻めています。
このとき、鳥取の城下町を焼いたことが問題となり、徳川家康からは切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃しました。
そして、竹田城は役割を終えて廃城になった次第です。
雲海に浮かぶ竹田城は、もちろん大変魅力があると存じます。
しかし、雲海が好きな訳ではないので、あまり撮影したいとも思いません。
お城が好きな訳ですのでね。
と言う事で、昼間に堂々と訪問してみました。
竹田城の見学方法
竹田城は、山城ですが、中腹まで道路があり「バス」または「タクシー」の通行が許可されています。(一般車不可)
普段、山城は時間が無い場合には登るのを断念することもありますが、日本100名城であれば、登らずにはいられません。
鬼ノ城も、鳥取城も、八王子城も、丸亀城も、宇和島城も、中城城も、春日山城も、備中松山城も本丸(山頂)まで登っていますのでね。
と言う事で、竹田城も頑張って登って参りました。
雲海に浮かぶ天空の城「竹田城跡」ではなく、山間にそびえる「竹田城跡」を見たくて・・。
しかし、日ごろの行いが悪いのか、途中の道路が「崖崩れ」にて通行止になっており、バスの運行が行われていません。
2018年7月にあった西日本豪雨による大雨の影響で道路が無くなり、バスで上がれる登城口ルート「山城の郷ルート」が閉鎖されているのです。
そのため、竹田まちなか観光駐車場にレンタカーを止めて、タクシーに乗車して南登山道から中腹まで向かいました。
普段であれば、JR竹田駅構内の「わだやま観光案内所」に出向いて、タクシーを呼んでもらうのですが、今回は、竹田まちなか観光駐車場にタクシーが何台も停車していました。
ずっと曇っていたのですが、晴れ間が出たため、日焼け止めを塗りました。
そして、念のため、折りたたみ傘を手に持ってタクシー乗車です。
しかし、タクシーに乗ってからはすぐに、本降りの雨が降り出しました。
南登山道の道路は狭いため、麓と中腹(駐車場)に警備員がいて、無線でやり取りし、相互通行にしていました。
なお、中腹の城門(模擬)のところの写真には、大粒の雨がバッチシ写ってますが、このあと止むことになります。
タクシーの運転手さんが、帰りはどうするか?と、聞きますので、雨で足元も悪いのでケガ防止のため「この雨ですので帰りもお願いします」と申し上げますと、帰る時に携帯に電話してと携帯番号を渡されました。
運転手さんによりますと、人が少ないと、鹿さんもよく出現するらしいです。
竹田城の入場口(支払いゲート)を過ぎた頃には、雨も止んだのですが、そのタクシーが行ける場所からはこれがまた徒歩でして約20分ほど舗装道を歩いて、ようやく竹田城の入場口と言う事になります。
タクシー代は、行きが片道1080円で、帰りはちょっとメーター降ろすタイミングをオマケして頂けて、960円でした。(料金はその後値上げすることもありますので、ご参考まで)
竹田城の有料見学エリアは一方通行で、通路が指定されています。
晴れていれば(地面が濡れていなければ)、帰り(下山)は、徒歩で表米神社登山道から降りても良いです。
このルートで竹田城の観光所有時間は、約2時間ほどになります。
往復バスかタクシー利用でしたら、靴はスニーカーで十分です。
竹田城の観覧料は高校生以上の大人が500円、中学生までは無料です。
入山できる時間は、季節によって異なります。
9月~11月の雲海シーズンは朝4時から入れようですが、1月4日~2月末は、冬期閉鎖となります。
12月も積雪があると入城規制となる場合があります。
また、悪天候などでも臨時閉鎖されますので、訪問前日と当日には、公式サイトでの情報確認が必須となります。
勝手に雲海予報と言う雲海出現予報もありますので、雲海目的の方はご参考にされると良いかと存じます。
雲海は9月~11月で、10月・11月の方が、雲海出現は多いようです。
発生の時間はおよそ夜明けから朝8時頃までとなります。
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立雲峡(りつうんきょう)と藤和峠(ふじわとうげ)からの雲海撮影がベストです。
カメラのレンズは150mm~200mmくらいが良いみたいです。
竹田城は、山頂に、よくこれだけ石垣を設置したと感心しますが、噂にたがわぬ名城でした。
興味はありませんが、100名城スタンプがある場所は、竹田駅舎内の観光案内所だそうです。
このあとは、出石城への方向に進撃致しました。
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