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但馬・朝倉城 朝倉氏の本貫地で越前・朝倉氏もここから発祥

但馬・朝倉城

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但馬・朝倉城(あさくら-じょう)は、兵庫県養父市八鹿町にある標高150m、比高100mほどの山城です。
最初の築城としては、平安時代末期に地名を苗字とした朝倉高清を初代とし、鎌倉時代に入ると子の朝倉信高(朝倉八郎信高)によって朝倉城が築かれたと云われます。

朝倉氏は孝徳天皇の皇子・表米親王(ひょうまい-しんのう)の後裔を称し、はじめ日下部氏を称した一族の氏族のひとつになります。
日下部氏の流れをくむ氏族としては、太田垣氏・八木氏・田公氏などもそうですが、越前・一乗谷城にて戦国大名になる朝倉氏も、この但馬朝倉氏の庶流となりますので、朝倉氏の本貫の地がこの朝倉城です。


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朝倉高清の長男・朝倉安高は但馬・八木城にて八木氏を興し、次男・朝倉信高が朝倉氏を継いでいます。
しかし、1221年、承久の乱にて敗れると朝倉氏は衰退したため、八木安高の孫・八木高実が但馬・朝倉氏を継ぎました。

但馬・朝倉城

越前・朝倉氏のほうは、鎌倉幕府が滅亡して、1333年(元弘3年)に、足利尊氏が六波羅探題を攻めた際に、朝倉広景・朝倉正景の父子が斯波高経に従って活躍しました。
朝倉広景は斯波高経の母方の祖父・長井時秀の被官であり、越前・若狭・越中の守護になった斯波高経の軍勢にいたと言う事になります。
そして、藤島の戦いにて新田義貞を討った戦功により、1336年に、越前・黒丸館(黒丸城)を与えられます。
その後、主君である斯波氏を追い、越前・一乗谷に本拠を構えたと言う事になります。

但馬に残った但馬朝倉氏としては、応仁の乱にて山名氏に従った朝倉豊後守がいます。
また、戦国時代末期にも朝倉大炊(あさくら-おおい)と言う武将が但馬・朝倉城を改修し守りを固めました。

但馬・朝倉城

しかし、1577年に羽柴秀吉が攻め寄せると、但馬・八木城主の八木豊信と朝倉大炊は降伏しています。
その後、豊臣秀吉の家臣・青木一矩が但馬・朝倉城主になったともされますので、但馬・朝倉氏は没落したようです。

但馬・朝倉城

ただし、朝倉大炊は徳川家康に名産品「朝倉山椒」を献上したと伝わりますので、生き残ってはいたものと推測致します。

登山口脇には室町時代と推測される朝倉宝篋印塔がありますが、朝倉大炊が先祖供養のために建立したのか、それとも本人そのものなのか、色々と想像してしまいます。

朝倉宝篋印塔

なお、付近には朝倉城だけでなく、朝倉比丘尼城、 朝倉向山城と3城があります。
朝倉城址は、越前・朝倉氏発祥の地として整備されており、遺構も良く残っているそうです。
登城口から本丸までは15分ほどの登りになる模様ですが、駐車場がありませんので断念しました。
また、近くの道路き狭いところが多いですので、走行にはご注意を。
登城口や案内板がある場所は、当方のオリジナル地図にて分かるようにしてあります。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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