日知屋城とは
日知屋城(ひちや-じょう)は、別名を船岡城とも呼ばれる海に面した丘城(海城)で標高は40m、比高は20mとなります。
宮崎の伊勢ケ浜に脇の断崖上にあり、大嶽神社のすぐ東側となります。
塩見城・門川城とともに日向三城と呼ばれて重要視されたいた城跡となります。
築城年代や築城者は定かでないが、1457年、小浪川の戦いで財部土持氏を滅ぼした都於郡城主・伊東祐堯の持ち城になりました。
埋まってしまったのか、規模は大きくありませんが、日知屋城には堀切も見受けられます。
1484年には、伊東祐尭の長男・伊東祐国と、弟・伊東祐邑が島津忠昌と戦い飫肥城を攻めますが、伊東祐国が討死して敗北を喫し、伊東祐邑は日知屋城に引き上げ、大友宗隣に支援を要請したとあります。
その後、亡くなった伊東祐国の子・伊東尹祐が日向伊東家の8代当主になるわけですが、伊東祐邑(いとう-すけむら)は幼い主君を支えるべく、日知屋城にて縣城の土持氏に備えたようです。
しかし、伊東本家では、豊後にも通じた伊東祐邑が、本家を乗っ取ろうとするのではと考えたようで、刺客が日知屋城に送られました。
1486年、伊東祐邑は朝早く起きて庭に出た歌を詠みます。
露はおき萩はまだぬる朝(あした)かな
と口づさんだとうろを、茂みから出てきた刺客に殺害されたとあります。
そのあと、この鉾島(ほそしま)では、夜な夜なに白馬に乗った伊東祐邑が出ていると言う噂が広がり、疫病も流行したことから、近くに鉾島神社が建立されて、伊東祐邑が祀られています。
なお、刺客として殺害に成功した伊東本家の家臣も、その後、切腹を言い渡され、自刃したとあります。
日知屋城にも、伊東祐国と伊東祐邑の慰霊碑(日知屋城の伊東家の墓)があります。
そのあとは、福本新十郎、氏本駿河守などが伊東氏48城の1つでもある日知屋城主を努め日知屋衆を率いましたが、伊東家では更に混乱は続き、1510年には「綾の乱」が起きています。
1578年に島津家が領すると、井尻伊賀守が入っています。
日知屋城には下記のような柵がありましたが、これがちょっとあるだけで、ほんと城跡だなと思います。
1587年、豊臣秀吉の九州攻めのあと、門川城・塩見城・日知屋城の3城は県城(延岡城)主となった高橋元種の領地になりました。
その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となっています。
鵜戸神社
日知屋城の西側には大御神社(おおみや-じんじゃ)があります。
祭神は天照皇大御神 (アマテラススメオオミカミ)で、日向のお伊勢さまと呼ばますますが、この神社に日知屋城は隣接しています。
そして、日知屋城南側の崖下には、海岸に大きな洞穴があいており鵜戸神社があります。
下記の写真のところから階段を降りていきます。
城として使われていた際には、この砂浜から舟を上げていたのでしょう。
下記のように切り立った海岸に、ぽっかりと大きな穴が開いています。
舟を隠しておくのには、もってこいの場所です。
穴の奥に大御神社の鵜戸神社があります。
宮崎の鵜戸神宮と申しますと、日南にある鵜戸神宮が有名ですが、この日知屋城の鵜戸神社も同様な神様を祀っているようです。
説明に「ここで振り返ってください」とありましたので、振り返って撮影してみましたが、うーん、なんとも言えません・・。
私の感性が鈍いのか、何が言いたいのか、よくわかりませんでした。
気を取り直して、つかの間の宮崎の海を楽しみました。
さて、日知屋城への交通アクセスですが、駐車場は、大御神の東あたりに駐車スペースがあります。
そこから日知屋城への散策路(登城口)が延びています。
下記のように案内板もあったのですが、いまいち良くわからずまいでして、直感での城探索となりました。
公園化されており、結構、地元の方も散歩するコースになっていますので、荒れている感はありませんでしたので、家族で訪れても良いところです。
見学所要時間は、鵜戸神社や大御神社も回って約60分といったところです。
日知屋城は猫が住み着いていることで有名なようですが、多分にもれず、ネコちゃんいました。
北側には、砂浜がとてもキレイな伊勢ケ浜海水浴場があります。
・伊東祐堯~日向伊東氏の中興の祖とされる名将
・綾城と内屋敷城~中世の山城が復元「伊東尹祐と綾の乱」も
・都於郡城~伊東家の本拠として素晴らしい大規模な山城
・日向・塩見城~争いに翻弄された日向三城のひとつ
・延岡城(縣城)~延岡市をいつまでも見守る石垣も立派な城
・3分でわかる高橋元種~延岡城を築いた初代の延岡藩主
・日向・飫肥城と風情ある城下町は超オススメの観光スポット
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