千葉県

下総・森山城(下総・飯田城)の歴史解説~千葉胤富(海上胤富)が大改修した巨大な城跡

下総・森山城(下総・飯田城)

スポンサーリンク



下総・森山城とは

下総・森山城(もりやまじょう)は、千葉県香取市岡飯田にある山城で比高は50mほど。
別名は東野城、下総・飯田城、橘城、柑子城、仲城、仲之城とも言う。
最初の築城としては、平安時代末期に千葉氏の一族で東氏の初代となった東胤頼(千葉胤頼)となる。
東胤頼(千葉常胤の6男)ははじめ東荘(とうのしょう)33郷の領主となって下総・桜井城(上代前掛城)に入っている。
僧・文覚(もんがく)と師弟の契を結び、1180年、源頼朝が挙兵すると千葉成胤(長兄・千葉胤正の子)とともに下総国の目代を討った。

1185年、父・千葉常胤から銚子方面となる三崎荘55郷を譲渡されると、1190年、須賀山城を築いて本拠を移すと妙見尊星王を勧請した。


スポンサーリンク



1205年、2代・東重胤は北条義時に従い畠山重忠との二俣川の戦いに出陣している。

のち、須賀山城と隣接する下総・森山城を築城すると1219年頃に移った。
この説明では、東胤行の嫡男・東泰行(東図書助泰行)が、父・東胤行とともに鎌倉から下総へ戻って、東庄森山に館を構えたとされる。
恐らくは、公暁によって源実朝が暗殺されると、鶴岡八幡宮で供をしていた2代・東重胤(しげたね)が出家しており、領地に引っ込んだものと考えられる。

下総・森山城(下総・飯田城)

3代当主・東胤行は、承久の乱の功績で、美濃・郡上郡山田荘の地頭も得た。
海上胤方の7男である東盛胤を養子に迎えて、三崎庄の本庄・沼闕城に入ると本庄盛胤と称した。

1221年、東胤行は下総・森山城から美濃・山田庄に移ったため、そのあとは東氏の流れを汲む海上氏(うなかみし)の領地となり、東氏は下総国東庄と美濃国郡上郡の2つに分かれた。
<注釈> 源頼朝が挙兵した際に海上常晴ら下総平氏は佐竹氏の内通を疑われて、千葉常胤らによって滅ぼされていた。


スポンサーリンク



戦国時代には本佐倉城の千葉昌胤(ちば まさたね)が須賀山城を改修したともある。

千葉胤富

千葉胤富(ちば たねとみ) は戦国時代の武将で1527年に生まれた。
父は本佐倉城主で下総千葉氏第24代当主の千葉昌胤(ちば まさたね)。
兄?に千葉利胤がいる。

その後、海上氏の養子になった海上九郎/千葉胤富(千葉昌胤の子)が下総・森山城を拡大整備すると、隣接する須賀山城は森山城と一体化され外郭のひとつになったようだ。(破却されたとも)

1557年、弟(または甥)の千葉親胤(千葉氏第26代当主)が家臣の手により殺害(享年17)されると、海上九郎(海上胤富)が下総千葉氏の宗家を継ぐことになったようで、千葉胤富(海上胤富)は千葉介(千葉氏27代)となった。

家督を継ぐと本佐倉城に移ったため、一時、小見川城の粟飯原胤次(栗飯原入道)を下総・森山城の城将にしている。
また、千葉一族や重臣などからなる森山衆を新設したともある。
その後、重臣・原親幹が森山城主となったようだが、その頃、森山城も大改修されたようだ。
下総・桜井城の東胤頼も下総・東一族であり、下総・東氏の一族も多い。

千葉胤富は森山城にいたとき、妻の菩提を弔う為、芳泰寺を須賀山城下に創建したともある。(東胤頼夫妻も葬られているとされる)
その後、継室として神島胤重の娘(鹿島幹胤の娘) を迎えた。

1561年、里見家臣・正木信茂の侵攻にて、千葉氏は臼井城小弓城を失っている。
よって千葉氏は小田原城の北条家を頼るようになり、臼井城や小弓城を奪還した。

千葉胤富は1579年に死去。
長男とされる千葉良胤(ちば よしたね)は、北条氏ではなく織田信長と誼を通じるなどした。
それに危機感を抱いた、臼井城の原胤栄(はら-たねひで)が、千葉良胤を下総・公津城(鷺山城)に幽閉。
こうして次男とされる千葉邦胤が29代になった。

千葉邦胤(ちば くにたね)は北条氏直の養女(北条氏政の娘)を妻に迎え、完全に小田原城の北条氏に臣従。
1585年、恨みをかった家臣に殺害された。享年29。
嫡男・千葉重胤がいたが、まだ幼少だったため小田原に人質に取れられており、北条氏政の実子・千葉直重が千葉氏の家督を継ぐのを許してしまっている。

これは千葉家の筆頭重臣である原胤栄が、北条氏政の子・千葉直重を、千葉邦胤の娘と結婚させて、家督を継がせるよう北条家に協力したようだ。
更に下総・森山城主になっていた原親幹(はら-ちかみき) が反乱を起こそうとしたため、北条氏直自ら出陣して本佐倉城の守備を固めたと言う事態もある。


スポンサーリンク



1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、下総・森山城の東直胤(下総東氏17代)は、まだ15歳前後の千葉重胤(千葉邦胤の子)らと小田原城に籠城するも湯本口にて討死。
子の東棟胤/千葉棟胤(49歳)は下総・森山城を守備していたようで豊臣勢に降伏し、美濃・東氏を頼ったともある。(弟は千葉良胤)
千葉宗胤(千葉大膳大夫棟胤)の妻は上総武田氏の当主・武田豊信の娘であり、千葉棟胤の子・東久胤の妻も武田豊信の孫娘になったそうだ。

これとは別に、下総・飯田城(下総・森山城)にいた東一族の東勝繁(東右衛門大夫勝繁)が見られる。
東勝繁は鹿島神宮禰宜・中臣清長を頼って常陸・鹿島に移ると鹿島神宮禰宜となった。

予定外の訪問だったため、写真も逆光で申し訳ない。

交通アクセス

下総・森山城への行き方だが、JR笹川駅から約3km、徒歩50分。
搦手の星宮大神も登城口のひとつのようだ。
下総・森山城の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
道路が狭めの為、お気をつけて訪問して頂きたい。

もちろん、下総・須賀山城とセットでどうぞ。
このあとは小見川城に向った。

臼井城の解説【臼井城の戦い】臼井景胤・白井胤治の奮闘
本佐倉城の解説【続日本100名城】見事な天然の要害で遺構状態も良い
須賀山城のちょこっと解説~東胤行の下総・東氏本拠地
下総・桜井城のちょこっと解説~東胤頼が本拠地にした千葉一族東氏の城跡
小見川城の歴史解説~千葉氏一族「粟飯原氏」の居城


スポンサーリンク



コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

城迷人たかだ

投稿者の記事一覧

高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

都道府県別


スポンサーリンク

只今人気のお城

城めぐり 2400城超えました

城めぐり
PAGE TOP