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万喜城
万喜城(まんぎじょう)は、上総国夷隅郡夷隅町(千葉県いすみ市万木)にある標高85mほどの山城。
漢字の書き方は万木城・満喜城・万騎城と色々あるが、歴史上では万喜城、地元では万木城と記載されることが多い。
最初の築城は上総武田氏ともされ諸説あるが、伝承によると1412年、摂津・富山城の土岐時政が後継者争いに敗れて移住し築いたとされる。
常陸・江戸崎城の土岐原秀成が関東管領・上杉憲方に従って常陸・信太荘に入って惣政所職となっており、その飛び地だった伊南荘が土岐時政に譲られたとも推測できるが文献にとぼしく詳細は不明。
上総・土岐氏ははじめ安西氏に仕えたと言うが、のち里見氏に臣従したともされる。
里見氏の重臣としては、万木城の土岐為頼、大多喜城の正木時茂、東金城の坂井敏房が勇将として知られた。
万喜氏(上総源氏)の初代・万喜時政の玄孫である土岐頼元(とき よりもと)のとき、嗣子がなかったことから、土岐一族で美濃原氏である原頼元の仲介を受け、土岐惣領家(美濃国守護)である土岐成頼の子・土岐頼房(万喜頼房)を養子に迎えた。
1493年、土岐頼定が家臣の鑓田勝定(鑓田美濃守勝定)に命じ、大原に支城として上総・小浜城を築城。
土岐為頼(万喜為頼)
土岐為頼(とき ためより)は、戦国時代の武将で土岐頼房の孫となる。
父は万喜城主・土岐頼定。
子に土岐頼春(万喜義成)、土岐頼実(土岐為実)、里見義堯の妻の父(名前不詳)がいる。
土岐為頼(万喜為頼)は、安房里見氏に従っており、娘・正蓮が里見義堯の継室となっている。
1552年頃、美濃守護・土岐頼芸が斎藤道三から美濃を追われると、常陸・江戸崎城の土岐治頼からの以来で土岐頼芸を迎えた。
1564年、第二次国府台合戦で、里見義堯・里見義弘が北条氏康に敗北すると、以後は北条氏に臣従して里見氏から3回ほど攻撃受けるも撃退した。
<注釈> 里見義堯の妻になった娘はそのまま里見家に残っている。
1575年、里見義弘は、正木頼忠に命じて万木城を攻撃するも土岐為頼はしのいでいる。
1579年、土岐為頼(万喜為頼)は子の土岐義成(土岐頼春)に家督を譲っている。
晩年は出家して慶含(もしくは慶岸)と号したようだ。
万喜土岐氏の領地は長年天災に遭うこともなく、民は豊かで兵も強く、この土岐頼春の代には近隣を侵略して武名を高めた。
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1588年9月、大多喜城の正木頼忠と安房・丸城の山川豊前守など里見勢約6000が万喜城に押し寄せた。
土岐頼春はよく防ぎ激戦になった結果、里見勢は退却している。
万喜・土岐氏の家臣としては、鶴見甲斐守、佐々木駿河守、鈴木山城守、石黒隼人助、上総・国府台城の三階図書之允、亀ヶ城の佐々木信家、鶴ヶ城の鶴見弥正行綱、浅生近郷(主水正)などが見られる。
1589年、里見義康が東京湾を渡って相模へ侵攻すると、北条氏直の要請を受け土岐頼春は小田原城に、土岐頼実や上階友忠ら300騎を派遣。
この戦力ダウンを見て庁南城の武田豊信(武田信栄)、里見義頼らが万木城を攻撃した。
武田豊信は家臣の石黒隼人助に騎馬50、弓70、徒歩100名を与えて上総・鶴ヶ城に向かわせている。
また、鶴見甲斐守にも兵を与えて上総・亀ヶ城の佐々木駿河守を警戒させたようだ。
しかし、上総・鶴ケ城の加治有久と、上総・亀ケ城の麻生主水助が、武田豊信の本陣を襲撃するなどして撃退。
大多喜城(小田喜城)の正木時茂も万木城を包囲したが、土岐頼春は巨岩、巨木を投げ落とし鉄砲をも撃って応戦した。
また、剣豪で知られる家臣・小野忠明(御子神典膳)が正木時堯(正木大膳)と一騎討ちする働きもあり勝利したと言う。(もちろん諸説あり)
この頃の上総・土岐氏は約10万石相当であり、兵力は1000騎とも1500騎(毛利家文書)ともされる。
<注釈> 1騎あたり3~4名の雑兵がつくので兵士数にすると3000~6000といったところ。
しかし、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めとなると、万木城は徳川勢の本多忠勝が攻撃。
土岐一族の諸将、熱田丹後守、益田志摩守、神子上典膳らが防戦するも落城し、上総・土岐氏は滅亡した。
土岐頼春は自刃したとも、小浜海岸から小船で脱出して三河に落ち延びたともされる。
徳川家康が江戸城に転封となると、本多忠勝が大多喜城に入る前、一時的に万喜城を本拠にした可能性もあるようだ。
と言う事で、万喜城(万木城)の廃城は1591年あたりだという。
現在、万木城跡公園として整備されており、本丸跡に天守風の展望台がある。
下記は万喜城(万木城)からの展望。
万木・海雄寺には、土岐頼元-明応元年(1492年没)、土岐為頼-天正十一年(1583年没)、土岐頼春-天正十八年(1590年没)の3つの位牌がある。
交通アクセス
万喜城(万木城)への行き方・交通アクセスですが、いすみ鉄道・国吉駅から3.2km、タクシーで7分、もしくは徒歩で約40分。
クルマの場合、西側の麓に大きな駐車場が完備されている。
ただし、小型車であれば本丸近くまで、細い道をクルマで上がって行ける。
その途中、トイレがある付近に、対面通行用の「信号機」が設置されていた。
道路がとても細くて急なため、この信号は大変ありがたい。
待ち時間は最大2分くらいと長いが、麓から歩いて登らずだいぶ高いところまで自動車で上がれる。
駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
しかし、千葉県も細かい城跡が非常に多く、とても全部は周り切れない。
このあとは大柳館に向かった。
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