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三河・上ノ郷城の解説~松平元康が忍びを使って落城させたお城

城址碑

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三河・上ノ郷とは

上ノ郷城(かみのごう-じょう)は愛知県蒲郡(がまごおり)市にある山城です。
現在は神ノ郷と書かれていますが、当時は上ノ郷と記されていて、現在の蒲郡高校一帯には上ノ郷に対して下ノ郷と言う地も存在しています。


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『郷』は郡の下に位置する行政単位で、当初の律令制では国・郡・里(り)の行政単位だった物が和同8年(715年)に行われた郷里(ごうり)制の施行によって『郷』と呼ばれるようになり、中世には多くの郷が郡に変わって国衙に把握される公領単位となります。
室町時代以降、公領の単位名としての『郷』は失われていったようですが、荘園や私領としての単位名として引き継がれていったと言われ、人口の増加に伴い上中下や東西南北などが付け加えられ、現在も各地に見える郷西や中郷などの地名の大半はこれらに由来する物と考えられています。

上ノ郷城
◆上ノ郷城看板

歴史

上ノ郷がある蒲郡の地は鎌倉期に熊野別当の領有する地であり、熊野新宮にいた鵜殿氏が海路を渡り土着して城館を築いた事が始まりと考えられていますが、平安末期に五男十郎と言う男が城を築いたと言った説もある上、天然の良港である三河湾一帯は地元の豪族の他に各地から海を渡り土着した氏族も多く、正しい築城年代は定かではありません。
平安末期には寛正年間(1460年~1466年)頃から勢力を伸ばした松平信光(まつだいら-のぶみつ)が支配する形原城(かたはら-じょう)と竹谷城(たけのや-じょう)、五井城(ごい-じょう)、岩瀬氏が支配する大塚地区の中島城(なかじま-じょう)と上ノ郷城を中心とした鵜殿氏の三つの勢力が争いを繰り広げながら蒲郡の地を支配していました。

室町幕府が弱体化して行く中、鵜殿長善(うどの-ながよし)は勢力を拡大して現在の蒲郡から幸田町にかけての一帯を支配下に置き、上ノ郷城は嫡男の鵜殿長将(うどの-ながまさ)に継がせた上で弟の鵜殿長存に下ノ郷城(しものごう-じょう)を築かせて分家を成させます。
さらには鵜殿長将の息子(弟など諸説有)である鵜殿長成(うどの-ながなり)には海岸沿いに不相城(ふそう-じょう)を、鵜殿長忠(うどの-ながただ)には山側に柏原城(かしわばら-じょう)を築かせて支配地域の安定化を図りました。

柏原城
◆柏原城遠景

鵜殿長将の跡を継ぎ上ノ郷城主となった鵜殿長持(うどの-ながもち)は遠江・駿河の大名として強大な勢力を持つ今川義元(いまがわ-よしもと)の妹を正妻に迎え入れて今川一門衆となり、今川勢の全面協力を得てその勢力は一段と拡大していきます。
この今川義元の妹の初婚の相手は、同じ蒲郡に本拠を持つ竹谷松平の当主であった松平親善(まつだいら-ちかよし)でしたが、享禄4年(1531年)に松平親善が死去すると鵜殿長持に再嫁しました。
鵜殿氏と松平氏は同じ今川氏の配下として通婚を続けて協力しながら三河湾北岸で勢力を拡大しており、深溝松平家の松平尹忠(まつだいら-これただ)は鵜殿長持の次女と結婚をし、松平尹忠の次女は下ノ郷主である鵜殿長存の孫にあたる鵜殿康孝(うどの-やすたか)と結ばれるなど良好な関係を築いていきます。

永禄3年(1560年)今川義元が尾張へと本格的に侵攻を開始。鵜殿長持が死去した後に上ノ郷鵜殿家の跡を継いだ鵜殿長照(うどの-ながてる)は大高城(おおだか-じょう)を包囲していた織田信長(おだ-のぶなが)の軍勢を突破して入城し、そのまま大高城の守備に付きますが兵糧が不足する事態に陥ります。


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この頃、岡崎城に戻っていた松平元康(まつだいら-もとやす)は今川義元の命を受けて大高城への兵糧入れを敢行し、丸根砦鷲津砦を始めとする織田軍の包囲網を抜けて小荷駄隊を大高城送り込む事に成功。その翌日には丸根砦を攻略して大高城へと入城しますが、今川義元が桶狭間で首を取られたため今川軍は撤退します。
鵜殿長照も本拠地の上ノ郷城へと撤退しますが、三河における今川氏の支配力は次第に低下していき、松平元康が今川氏から離反すると下ノ郷の鵜殿長龍(うどの-ながたつ)などは松平軍に与しますが、鵜殿長照は今川家との縁(生母が今川義元の妹であるため、跡を継いだ今川氏真とは従弟になる)を重んじて上ノ郷城に立て籠もります。

上ノ郷城看板
◆上ノ郷城案内版

永禄5年(1562年)西三河を平定した松平元康は東三河へと兵を進め、上ノ郷城の攻略へ向けて竹谷松平の当主である松平清善(まつだいら-きよよし)らを先頭に攻撃を開始しますが、鵜殿長照は固い守りを見せて松平軍を撃退します。
松平元康は城から1km程北西にある名取山(現在の上名取にあたる地域)の地に陣を構え、松平元康の生母である於大の方の再婚相手である久松俊勝(ひさまつ-としかつ)や大久保忠勝(おおくぼ-ただかつ)らを中心とした本隊を進軍させて城兵70名余りを討ち取り気勢を上げますが、上ノ郷城の守りは堅く落城には至りません。

攻め手を失った松平元康は甲賀忍びを雇い入れる事を考え、これに応じた伴与七郎資定(ばん-よひちろう-すけさだ)は80人、鵜飼孫六(うかい-まごろく)は200人の忍びを率いて参陣します。
鵜飼孫六配下の200名は夜陰にまぎれて城内に侵入し建物に火を放って敵勢を斬りまくり城内を混乱に陥れた上で、伴資定らは城内に侵入して鵜殿長照の息子である鵜殿氏長(うどの-うじなが)・鵜殿氏次(うどの-うじつぐ)兄弟を生け捕りにし、城主である鵜殿長照も城の東500m程にある安楽寺近辺で討ち取った事により、固い守りを誇った上ノ郷城もついに落城しました。
後に鵜殿氏長・鵜殿氏次の兄弟は、駿府で人質にされていた松平元康の正室である築山殿松平信康(まつだいら-のぶやす)、亀姫との間で交換が行われ、今川氏真の元へ行く事になります。

歴史看板
◆上ノ郷城の歴史が書かれた看板

上ノ郷城を与えられた久松俊勝は本拠の坂部城(さかべ-じょう)に庶長子で徳川家康と直接の血縁が無い久松信俊(ひさまつ-のぶとし)を残して織田信長に仕えさせ、松平康元(まつだいら-やすもと)ら於大の方が産んだ子供らと移り住んで来ました。

その後も東三河平定に尽力していた久松俊勝でしたが、織田家に仕えていた刈谷城(かりや-じょう)主の水野信元(みずの-のぶもと)が佐久間信盛(さくま-のぶもり)の讒言を受けたため甥の徳川家康を頼ってきます。
徳川家康は織田信長との同盟を重んじて水野信元を自害させる決断をしますが、久松俊勝が義兄(水野信元は妻の於大の方の兄にあたる)を助けて逃亡の手助けをする事を恐れ、久松俊勝に対して事情を明かさずに水野信元を召喚する使者とします。
この一件に関して、水野信元が自害した後に事情を聞かされた久松俊勝は激怒し、嫡子の松平康元に跡目を譲って下ノ郷城へと隠棲したと言われています。

天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴って松平康元は下総関宿2万石を与えられ、上ノ郷城は吉田城(よしだ-じょう)に入った池田輝政(いけだ-てるまさ)の支配下に置かれます。
慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦が起こり、岐阜城攻略などの戦功により池田輝政が姫路52万石の大名となると上ノ郷城は廃城になったと伝えられています。


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余談になりますが、築山殿らとの人質交換で駿府に送られた鵜殿氏長は二俣城(ふたまた-じょう)の松井氏に属し、今川氏真に仕えていましたが、永禄11年(1568年)に起こった徳川家康の遠江侵攻に対して降伏し旗本として仕える事になり、弟の鵜殿氏次は松平家忠(まつだいら-いえただ)に仕え、関ヶ原の合戦の前哨戦にあたる伏見城攻防戦で石田三成(いしだ-みつなり)ら西軍の攻撃を受けて松平家忠と共に討死しています。

交通アクセスと登城

上ノ郷城はJRもしくは名古屋鉄道の蒲郡駅から北へ約2.5km程の箇所に位置しています。
公共交通機関を利用する場合、蒲郡市を走るコミュニティバスの西部地区みかんの丘くるりんバスを利用する事になりますが、運行は火・木・土曜日の週3日で1日に4便しかありません(2021年8月現在)ので、自家用車での訪問をお勧めします。
上ノ郷城一帯の大半はミカン畑になっており、車を停めるスペースはありませんが、車で訪問する方は城の南東に建つ赤日子神社の駐車場を利用する事が可能です。

赤日子神社脇の縄張り図
◆赤日子神社脇に建つ縄張り図

城郭の周囲宅地やミカン畑の間を抜けるような細く入り組んだ道が多いですが、赤日子神社の西側には城の縄張り図とも言える案内図が書かれた物があり、神社から城域までの各所には案内表示が立てられていますので、表示に従って進めば私有地に入る事なく城域にたどり着く事が可能です。

※ミカン畑の中には遺構と思えるような高まりなどが見受けられますが、私有地の可能性も高いため許可なく立ち入りはせず、通路部分のみを歩くようにしてください。

案内標識
◆ミカン畑の間の案内板

ミカン畑の間を抜けると、上ノ郷城の見どころの一つである土塁が見えてきます。土塁の上には城址碑も建てられていますが、下草が長い時期は見落としやすいので注意してください。
虎口を抜けると二郭の中に入りますが、北側は本郭に向けて高さ約6m程もある急斜面の崖になっており、東西と南側は高さ3m程の土塁に囲まれているため、二郭に侵入した敵は一網打尽にする事が可能です。

土塁
◆土塁と城址碑

本郭に進むためには二郭東側の土塁脇を登り、東郭の横を通って行く事になります。南東の虎口から侵入する事になる本郭は30m×30mの正方形が2つ東西に繋がった形状をしていて、間にあるわずかな段差は石垣が残されています。
周囲は高い木々も少なく、北西には名取山、南に目を移すと不相城があった小山を越えて三河湾が一望できます。

本郭の石垣
◆本郭の段差に残る石垣

赤日子神社から本郭までは徒歩約20~30分程度の決して大きな城跡とは言えませんが、縄張りを含めて見るべき箇所は多く、松平軍が攻めあぐねた城だけの事はあります。

その他近隣の関連施設

●下ノ郷城跡
蒲郡市上本町8-9
現在の蒲郡高校一帯が城跡と言われています。
城の南側に建てられた蒲形陣屋の土塁は下ノ郷城の遺構を利用した物と言われています。

蒲形陣屋の土塁
◆蒲形陣屋の土塁

●蒲形陣屋
蒲郡市本町12
蒲方陣屋は竹谷松平家が築いた陣屋で幕末まで領有していました。
現在も土塁の一部が残されており、蒲郡市博物館には陣屋門が移築されています。

陣屋門
◆蒲形陣屋門

●蒲郡市博物館
蒲郡市栄町10-22
蒲形陣屋の陣屋門が移築されている他、館内では御城印を購入する事ができます。
御城印に描かれた鵜殿氏の家紋には蒲郡の名産であるミカンの香が刷り込まれており、擦るとほのかにミカンの香がすると言う珍しい御城印になっています。

御城印
◆御城印

●長存寺
蒲郡市上本町4-5
下ノ郷初代城主である鵜殿長存の名前にちなんで名づけられた寺で、鵜殿氏の墓もあり、鵜殿氏の由来が記されている碑も立てられています。

鵜殿氏由来の碑
◆鵜殿氏由来の碑

●柏原城
蒲郡市柏原町中原
忠安寺の北西にある小山に建てられた城です。
山林内に土塁跡などが残されていたそうですが、東海道新幹線の建設により城域は分断され、立ち入る事は出来なくなっています。


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●不相城
蒲郡市竹島町15-1
蒲郡市の観光地の一つである竹島へ渡る橋を目前にした小山に築かれた城です。城跡にはホテルが建てられており遺構は存在しません。

(寄稿)だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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