群馬県

女渕城 赤城山麓の歴史ある城跡

女渕城

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女渕城とは

女渕城(おなぶちじょう)は、群馬県前橋市粕川町女渕にある平城で、女淵城とも書きます。
標高は178mほどの、赤城山・南麓にありますが、険しい訳ではなく台地で高低差がちょっとあるような地形をうまく活用しています。
城域は東西が約200m、南北は約450mとあり、北曲輪、帯曲輪、本丸、二の丸、御霊曲輪(三の丸)、竜光寺曲輪と続いています。
また、河川や池が自然の水堀となっているのが特徴です。


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最初の築城は不明ですが、伝承での一番乗りは南淵の大掾・高野辺家成です。
高野辺家成がここに居を占めたという。
高野辺大将家成は、京の公家だったようですが、無実の罪をきせられて、上野・勢多郡深栖(粕川村深津)に流罪となってやってきたようです。
履中天皇(りちゅうてんのう)の頃とされますので、そのとおりですと西暦340年頃の古墳時代になるでしょうか?
高野辺家成は1男3女をもうけたようですが、妻が亡くなると、後妻(継室)として、信濃国更科郡の地頭・更科大夫宗行の娘を迎えました。
そして、罪を許された高野辺家成は、上野国の大掾(国司のナンバー3)に任じられましたが、継室は前妻との間の娘を嫌ったそうです。
3人の姫の名は、長女が淵名姫は、次女が赤城姫、三女は伊香保姫で、その継室は、弟・更科兼光(更科次郎兼光)に、3人の姫を殺害するよう、そそのかします。
更科兼光は、淵名館を攻めて淵名姫らを利根川の倍屋淵(ますや-ふち)に沈めました。
また、大室館では赤城御前らを追い詰めますが、赤城姫は赤城沼の龍神に導かれて赤城沼へと消えたと言います。
その後、伊香保を攻めようとしましたが、守りが堅く、伊香保姫は無事でした。

女渕城

都から上野に戻る途中、この悲報を知った高野辺家成は、淵名姫が殺害された場所に向かいます。
すると川の中から淵名姫が現れ、赤城山からは雲の中より赤城姫が現れ、それぞれ父・高野辺家成に別れを告げて消えました。
この悲しみに、高野辺家成は自らも利根川へ身を投げたとされます。
生き残っていた伊香保大夫は、急ぎこのことを都にいる兄に知らせました。
その兄(中納言)は軍勢を率いて上野に戻ると、継母や更科兼光らを捕らえて斬罪したと言うのが、赤城神社にも伝わる伝承です。
このように、深津にある摩住多の淵を、その後、女の淵と呼んだとする説もあります。

女渕城

その後、平安時代前期に南渕秋郷(みなぶちの-あきさと)と言う豪族が出てきます。
878年に、出羽(秋田)にて俘囚(ふしゅう)が反乱を起こし(元慶の乱)、官軍が大敗します。
この時、討伐軍の藤原保則に従って、南渕秋郷は兵600を率いて鎮圧に参加したとあります。
この戦功もあり、上野の人々は御南淵様と呼んだようで、のちに女渕に土地の名が変わったともされます。

女渕城

そのあと、出て来る武将の名は足利直義です。
足利直義(あしかが-ただよし)は、鎌倉時代末期の武将で、兄は、室町幕府を起こした足利尊氏です。
鎌倉幕府の滅亡にも貢献した足利直義でしたが、足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、やがて南朝で足利尊氏に対抗する後村上天皇の味方となりました。(観応の擾乱)
当初こそ、北朝の足利尊氏勢を圧倒した足利直義でしたが、兄の勢力が挽回し、相模・早川の戦いにも敗れて、鎌倉に入ると降伏しました。
この時、よくわかりませんが、女淵城にいた足利直義は、上杉憲顕から攻められて「女淵の大合戦」になったとあり、敗れた足利直義は足利に逃げたとあります。
ただし、上杉憲顕は、足利直義を鎌倉に招き入れようと、協力した武将ですので、どうして敵対したのか?、少し理解に苦しみます。
もしかしたら、方針転換があったのかも知れませんが・・。

女渕城

戦国時代に入ると、小田原城の北条氏が上野へ進出します。
そのため、春日山城上杉謙信が1559年に関東に入ると、女渕城を攻略し、長尾顕長に与えられました。
女渕城には長尾顕長の家臣である新井図書允(新居与一長重)が任されたようです。

その後、女渕城主としては沼田景義の名が見られます。
沼田景義(ぬまた-かげよし)は、上杉謙信に沼田城を奪われてから逃れていましたが、上野・金山城主の由良国繁が攻略してと推測される女渕城を与えられたようです。
そして、1581年2月、真田昌幸の手に落ちていた旧領への復帰を目指して沼田城へ兵を進めましたが、真田昌幸の謀略にて殺害されました。

女渕城

1578年に上杉謙信が死去すると、上野は武田勝頼の勢力が支配し、1582年以降は北条氏直の領地となり、北爪氏(北爪大藏・北爪将監・北爪甚内・北爪与兵衛・北爪大膳・北爪織部など)が城に入ったようです。
1590年には、女渕五郷(女渕・鼻毛石・苗ケ島・友成・深津)の女渕衆(女淵地衆)に、北条家が動員をかけた記録もあるようです。
しかし、豊臣秀吉小田原攻めにて北条家は滅亡し、女渕城も廃城になったと考えられます。


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交通アクセス

女渕城への交通アクセス・行き方ですが、上毛電鉄・新屋駅から徒歩10分ほどで、女渕城址公園にたどり着きます。
公園には30台ほどの無料駐車場も2箇所ありました。
駐車場の場所は御霊神社の西側ですが、道路がわかりにくいので、当方のオリジナル地図にて駐車場をポイントしておきます。
カーナビ代わりにもご活用いただけます。

女渕城の見学所要時間ですが、30分ほどになります。
公衆トイレも完備されています。

このあとは、大胡城に向かいました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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