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常陸・府中城(石岡城)とは
常陸・府中城(ふちゅう-じょう)は、茨城県石岡市総社にある石岡台地上の平城で、石岡城と呼ぶこともあります。
現在の石岡市立石岡小学校が常陸府中城と言う事になりますが、城ができる前の古代から常陸国府(政庁)が置かれました。
飛鳥時代の700年に、百済王遠宝(くだらのこにきし-えんぽう)が常陸守に任命されて国府が設置されたと考えられます。
752年には常陸国分寺も完成したことから、常陸国府跡としては国の史跡に指定されています。
しかし、平安時代に入ると、常陸介・藤原維幾の子である藤原為憲(ふじわら-の-ためのり)の勢力があったようで、939年、常陸・府中は平将門に包囲され、この平将門の乱にて荒廃しました。
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このような経緯を考えますと、常陸府中城は最低限、かなり昔から館・屋敷として、城の機能を果たしていたと考えるのが妥当になります。
ちなみに、この藤原為憲の子孫は、工藤氏となり、鎌倉御家人となる伊東氏、伊藤氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏などが派生しています。
その後、鎌倉時代にはあまり文献にも出てこないことから荒廃が続いていたようで、一般的には、南北朝時代の正平年間(1346年~1370年)に、大掾詮国が常陸府中城を築いたとされています。
また、鎌倉時代の初期1214年に、大掾資朝(馬場資朝)が、常陸国衙が置かれていた場所に別館を築いたのが始まりともされます。
平将門討伐にて戦功があった平貞盛(たいら-の-さだもり)が、常陸に所領をたくさん得て、弟・平繁盛の子である平維幹を養子にすると常陸の所領を相続させました。
常陸国にて、いわゆる一番エライ人は常陸守で、No2が常陸介、そして、No3が、常陸大掾(だいじょう)と言う事で、この平維幹は、常陸大掾職につきました。
ただし、この頃には、常陸守はおらず、常陸介が実質的な最高位ですので、常陸大掾は2番目に偉い人と言えます。
そして、平維幹は、筑波にある常陸・多気山城(多気城)を本拠としたようです。
この桓武平氏繁盛流惣領家の常陸平氏(常陸大掾氏)からは、平清幹の娘が源新羅三郎義光に嫁いで、佐竹家初代の佐竹昌義を設けました。
すなわち、甲斐の武田信玄にも繋がっていると言う事です。
なお、本家の多気氏は滅びましたが、常陸では大掾氏としては、大掾資幹(馬場資幹)が馬場城(水戸城)を本拠にしており、大掾朝幹―大掾教幹―大掾光幹―大掾時幹―大掾盛幹―大掾高幹と続き、常陸府中城を築いたとされる大掾詮国(大掾文幹)を輩出しました。
大掾詮国(大掾文幹)が、屋敷程度だった常陸・府中城を改修して防衛機能を充実させたようです。
その後、河和田城主・江戸通房(えど-みちふさ)が、1426年、水戸城主の大掾満幹が青屋祭の見物で水戸から離れて、常陸府中に向かった隙に水戸城を占拠します。
大掾満幹(だいじょう-みつもと)は、3年後に鎌倉にて殺害され、弟の大掾秀幹からは、常陸・府中城に入った模様です。
そして、大掾頼幹―大掾持幹―大掾清幹―大掾高幹―大掾常幹―大掾慶幹―大掾貞国―大掾清幹と戦国時代まで続きますが、いずれも、常陸・府中城を本拠としています。
ご承知の通り「府中」と言う地名は、その国の政治・経済・文化の中心地として古代に行政機関が置かれたことから「府中城」と呼ぶ城跡は、日本全国に多いです。
駿河府中城(駿府城・静岡城)、甲斐府中城(甲府城)、美濃・府中城、越前・府中城、安芸・府中城(府中出張城)、対馬・府中城(厳原城・桟原城)、豊後・府内城、大隅・府中館(府中館)とありますが、ここでご紹介するのは、常陸府中城(石岡城)となります。
戦国期には、なだらかな丘陵に、本丸・二の丸・三の丸と、3つの出丸(箱の内・磯部・宮部)が配置され、規模も大きかったようです。
江戸初期の軍学者、山鹿流で知られる山鹿素行(やまが-そこう)の著書「謫居童問」(てききょどうもん)によると、常陸・府中城は都城式形態の名城で、陸奥・多賀城、筑前・怡土城と共に「日本の三名城」と言われたほどの城で、石岡の町全体が城の中にあったようです。
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1562年には、常陸・太田城主の佐竹義昭が継室に大掾貞国の妹を迎えて、その大掾氏の本拠地である常陸・府中城に移って隠居しています。
大掾清幹
戦国時代、大掾清幹(だいじょう-きよもと)は、父・大掾貞国が1578年に死去し、僅か5歳で家督を継ぎました。
そのため、政務を父の弟・竹原義国が後見しましたが、この頃の大掾氏は、常陸・太田城の佐竹義重や水戸城の江戸重通、常陸・小田城の小田氏治らと争っており、周りは敵だらけでした。
小川城の園部氏も背いて江戸重通に内通する動きがあり、大掾氏は田木谷城を改修して小川城に対処しています。
常陸・小幡城なども江戸氏に攻略されましたが、真壁城主・真壁久幹の娘を正室に迎えて唯一の同盟を得ると、1586年、江戸重通の攻撃をなんとか和睦に持ち込んでいます。
しかし、1588年、佐竹義重と佐竹義宣の父子が江戸氏に援軍を出したため、大掾清幹は敵対していた小田原城の北条氏直に救援を求めました。
佐竹勢は、江戸重通・鹿島清秀・烟田通幹らと合流して常陸・小川城から、常陸・府中城に迫りましたが、大掾清幹と真壁氏幹は撃退しています。
しかし、大掾清幹は事実上の降伏をして、佐竹氏に屈しましたが、そのあとも大掾氏と江戸氏は対立を続けています。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで、大掾清幹はかつてのように留守中に江戸重通に城を乗っ取られるのを恐れて動けず、同様に、江戸重通も警戒したようです。
そのため、大掾清幹は佐竹義宣に羽柴秀吉への謝罪文を託しています。
しかし、佐竹義宣は大掾氏らに配慮することはせずに、石田三成とも親しくし、豊臣家から常陸統一のための攻撃許可を得たと言う事になります。
1590年12月、佐竹義重の軍勢は江戸氏の水戸城を落とすと、そのまま南下し、常陸府中城を攻略しました。
現在の石岡小学校の西側に宮部地区に下りる坂は「残念坂」と呼ばれています。
城を落ちのびようとした大掾清幹が、この坂まで来てうしろを振り返り、燃える城を見て「嗚呼残念」と慨嘆したという伝承が残っています。
大掾氏の菩提寺・平福寺にて、大掾清幹は自刃し常陸大掾氏は滅亡しました。
そして、佐竹義尚が常陸府中城主になりましたが、慶長7年(1602年)に佐竹氏は出羽・久保田城に転封となります。
代わりに、出羽・六郷城から六郷政乗が10000石で常陸・府中城に入り、常陸府中藩が成立しました。
1623年、六郷政乗が出羽・本庄城へ転封とにると、信濃・飯山城主で改易になっていた皆川広照が1万石で大名に復活し入封しました。
1645年、皆川氏は断絶して所領没収となると、1700年からは水戸藩主・徳川頼房の5男である松平頼隆(2万石)の所領の一部となり、幕末に至っています。
常陸・府中城の遺構はほとんど消滅していますが、石岡小学校付近に残る土塁と改修復元した陣屋門が見どころとなります。
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交通アクセスですが、JR常磐線の石岡駅から徒歩約15分となります。
クルマの場合、石岡市立ふるさと歴史館の無料駐車場が利用可能です。
当方のオリジナル日本のお城地図にて、場所をポイントしておきます。
なお、常陸・石岡城とも言いますが、性格には石岡城は外城と呼ばれるように出丸のような感じだったようです。
国道6号より南にある、現在の岡田稲荷の所に案内板があるそうです。
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