常陸・太田城(おおた-じょう)は、 茨城県常陸太田市にある平山城で、別名は佐竹城、舞鶴城、青龍城とも言いますが、その中では舞鶴城がよく使われます。
なお、太田城と言う名称の城跡は、陸奥と紀伊にもあります。
本丸は現在の太田小学校で、敷地内に舞鶴城趾の石碑(トップ写真)があります。
若宮八幡宮の境内には、太田故城碑がありますが、ここは二の丸跡です。
その他は、住宅地になっており、遺構などはほとんど消滅しています。
スポンサーリンク
標高は40m、比高は30mで、関東七名城(河越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、宇都宮城、多気城)のひとつに数えられます。
最初の築城は平安時代と古く、1109年に小野崎通延が館を設けたとされ、太田大夫と称しました。
この小野崎氏は、藤原秀郷を祖とする武門で、代々、常陸国守護代を勤めました。
小野崎通延の子・小野崎通成は、源義光が常陸に入ったことにより、近くの佐都郡佐都(小野崎城)に退きました。
下記が常陸太田の小野崎城になります。
のち、佐竹氏が勢力を伸ばすと、小野崎氏は佐竹氏に従うようになり、額田城などで続き、佐竹氏の有力家臣となりました。
源義光(みなもと-の-よしみつ)は、河内源氏の2代目棟梁・源頼義の3男と言う事になりますが、新羅三郎(しんらさぶろう)と言うと、聞き覚えがあるかと存じます。
後三年の役の際に陸奥・金沢柵で武功があり、常陸の有力豪族である平直方の娘を妻にして、1133年、常陸・馬坂城に入り地位を確立しました。
子孫には、平賀玄信などの信濃・平賀城主、武田信玄の武田氏、佐竹氏、深志城の小笠原長時などの小笠原氏、南部晴政の南部氏など有力武家へ発展していきました。
スポンサーリンク
馬坂城がある常陸国久慈郡佐竹郷が当初の本拠で、太田城を本拠としたのは、2代・佐竹隆義のときからとなります。
入城の際に、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだのを見て「舞鶴城」と名づけたとされます。
このように、舞鶴城とは呼ばれましたが、戦国時代でも太田城とは言われなかったようでして、現在、便宜上、常陸・太田城と言うようになっていると考えます。
下記写真は、北郭があったとされる太田第一高校付近です。
なお、太田城じたいは防御性は高いと考えていなかったようで、佐竹氏が籠城する際には、堅固な金砂山城に籠っています。
下記は一番南の二の丸に当たる場所で、現在、若宮八幡宮になっており駐車場もあります。
常陸太田城での一番の見どころととも言えますが、まぁ、完全な神社になっています。
この丘から西山荘がある方向を見た展望です。
ただし、若宮八幡宮も郭だったことはわかりますが、目立った遺構は残されていません。
いずれにせよ、長い間、佐竹氏の居城となり、戦国時代には佐竹義昭が活躍しました。
戦国時代の末期、佐竹義宣の頃に水戸城を整備すると本拠を移しています。
江戸時代には、一部が機能しており太田御殿と呼ばれたようです。
1707年~1718年には9年間、水戸藩付家老・中山氏が松岡城から移って居城としています。
太田城の地勢としては、3方が崖になっている高台に築かれており、大分の杵築城の城下町部分に似ていると感じました。
ともあれ、関東では水戸城の縮小版と言う印象の地勢です。
佐竹氏が秋田に移ったあとには、水戸が栄えることになったため、やむを無いですが、戦国大名の拠点だった割には遺構も少なく、少し残念に思えました。
スポンサーリンク
交通アクセスですが、JR水郡線り常陸太田駅、日立電鉄線の常北太田駅から徒歩10分となります。
駐車場はありませんが、二の丸の若宮八幡宮には参拝用駐車場が裏手にあります。
小学校の石碑は、外の道路からなんとか見えて撮影できますが、学校敷地内にありますので、立ち入る際には必ず許可を得たいところです。
小野崎城、馬坂城などはそんなに離れていません。
水戸黄門(徳川光圀)の隠居先となった西山御殿(西山荘)もありますので、セットでどうぞ。
・常陸太田の小野崎城 太田氏の移転先
・佐竹義宣 なんとか戦国時代を乗り切った律義者の世渡り
・竜神大吊橋 紅葉も素晴らしい茨城県の観光名所と駐車場混雑時攻略法
・常陸・石塚城 なかなか規模も大きい石塚氏の城
・額田城 東京ドーム22個分 額田照通の本拠地
・佐竹義昭 なかなか合戦では強かった佐竹氏
・常陸・山方城 山方盛利や佐竹政義の居城
・常陸・馬坂城 佐竹発祥の地 佐竹寺と佐竹氏の由来も
・水戸城 徳川御三家の日本100名城 見どころポイント
・茨城県の城跡巡りにも便利な独自地図
この記事へのコメントはありません。