新潟県

大葉沢城 鮎川清長と鮎川盛長は畝状竪堀で防御

大葉沢城

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越後・大葉沢城(おおばさわ-じょう)は、新潟県村上市大場沢にある標高90m、比高60mの山城で、別名は、寺山城、寺山の城と言います。
築城年代は不明ですが、本庄城(村上城)の本庄氏の庶流で、早い時期に分かれたとされる、鮎川氏の居城として知られます。
戦国時代になると、1512年に、鮎川式部大輔が、長尾為長に反旗を翻したため、大葉沢城にて籠城しています。
鮎川藤長の子・鮎川清長(あゆかわ-きよなが)は、1530年、上条定憲が守護代・長尾為景に対して挙兵した「上条の乱」になると、他の揚北衆と共に上条氏に味方しました。
1539年には、同族の小川長資と共に、本家と言える本庄房長を裏切ります。


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下渡島城の支配を巡って対立したようで、小川長資・大宝寺晴時・色部勝長と一緒に挙兵し、鮎川清長は越後・本庄城(越後・村上城)を攻めました。
遠征先にて、居城が奪われたと聞いた本庄房長は、村上城へ引き返しますが、その途中で倒れ、急死したとされます。
この争乱のさなかに、のち上杉家で活躍する本庄繁長(千代猪丸)が生まれました。

長尾為景が亡くなって、長尾景虎が長尾家の家督を継ぐと、鮎川清長は従属しました。
第4次川中島の戦いでは、本庄繁長や色部勝長らと共に武田勢と戦っています。

1568年に、本庄繁長が反旗を翻して武田信玄に内応し、本庄繁長の乱となると、鮎川清長は、引き続き上杉家に属しており、本庄繁長を孤立させました。

1571年、本庄繁長は、本庄房長の法要十三回忌の席場で鮎川清長を誅殺したともされます。

大葉沢城

上杉謙信は、本庄繁長の所領を一時没収しますが、詫びを受け入れて、返還しました。

その後、鮎川清長の子・鮎川盛長(あゆかわ-もりなが)が、大葉沢城主となったようですが、やはり本庄家に対抗しました。

1578年、御館の乱では、本庄繁長が上杉景勝に味方したのに対して、 鮎川盛長は御館上杉景虎(北条三郎)に加勢します。
ただし、上杉景虎(北条三郎)が敗れても、鮎川家は許されており、上杉景勝に仕えました。

御館の乱の論功行賞に不満を感じた、新発田重家が反乱を起こすと、本庄繁長は積極的に鎮圧に貢献しましたが、鮎川盛長は静観したため、鮎川家は没落しました。

鮎川盛長には子がなく、越中の神官である二宮長恒の子・秀定を養子に迎えました。
鮎川秀定は加賀・前田利長に仕えましたが、鮎川秀定の継は、本庄長房の子である鮎川信重が継ぎ、寛永16年(1639年)に上杉定勝の家臣として復帰しています。

大葉沢城

大葉沢城は、普済寺の背後にあり、舌状に伸びた小山の上に築かれています。
今回、熱中症を警戒して無理はしませんでしたが、雷神社のある西曲輪群と、東曲輪群からなり、西曲輪群の南には「ゴボウ峰」と呼ばれる畝状竪堀群があるそうです。
畝状竪堀(うねじょうたてほり)と言うのは、土塁と空堀が交互に連なっている陣地で、土塁と土塁の間に空堀が必ずあると言う感じらしいです。
日本国内でも、特に新潟県では10%以上の城で採用されている防御式ということで、少ない人数で守るのに適したようです。

大葉沢城

畝状竪堀の遺構状態は素晴らしいようで、訪れた城マニアさんの評価は、とても高い城でして気になっていました。

なお、堀底を仕切るような土塁状の障害物があるのは、堀障子(ほりしょうじ)と言いまして、山中城などで見られますが、障子堀は障子のような形をしているもので、そうでないものは、畝状竪堀と言うのでしょうかね?


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しかし、訪問当日は、夏で山の中は茂みもすでにスゴそうであり、なおかつ外気温32℃であり、体調の事と、このあと越後・荒戸城まで、ずっとクルマを流して行くことを考慮して、足を踏み入れるのは断念致しました。

県道沿いに無料の駐車場が儲けられてたのはありがたいです。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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