岩手県

九戸城とは【続日本100名城】奥州再仕置で豊臣勢6万が攻撃した九戸城の戦い

九戸城

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九戸城

九戸城(くのへじょう)は岩手県二戸市福岡城ノ内の梯郭式平山城で、福岡城、宮野城とも言う国の史跡であり、続日本100名城にも選ばれています。
標高は133.5m、比高は20mとなります。

白鳥城と言う別名もあることから、平安時代中期の武将である安倍頼時の子・安倍則任(あべ-のりとう)(白鳥八郎)が築城したとの伝承もあります。


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ただ、主な城主としては九戸氏が知られています。
九戸氏(くのへし)は、、南部氏の祖・源光行(三戸城主・南部光行)の6男・九戸行連(くのへ-ゆきつら)が分家して陸奥国九戸郡伊保内(岩手県九戸村)の領主になったと伝わります。
ただし、九戸信仲の代までは、大名館が居館であったとされ、その場所は、九戸郡九戸村の長興寺がある場所だと推定されています。

1569年、安東愛季との鹿角の戦いにて活躍した九戸政実に対して、宗家の南部晴政から二戸が加増されて、九戸城に移ったとされます。

九戸城

九戸城は、西に馬淵川、北に白鳥川、東は猫渕川と、三方を河川に囲まれた天然の要害との事ですが、実際問題比高は僅か20mですので、三戸城のほうがよっぽど要害です。

九戸城からの展望

古い時代の九戸城は、下記写真の若狭舘・戸舘などが本体だったと考えられています。
東北での「館」(だて)と言うのは、城や曲輪の部分を言います。

九戸城

九戸政実の乱

1591年、豊臣秀吉の奥州仕置の際に、三戸城主・南部信直の一族で重臣となる九戸城主・九戸政実が、謀反を起こします。
それまでは、南部家の一族と言っても、どちらかと言うと南部家は連合政権で、一族の独立意識もあったのですが、豊臣秀吉に臣従すると、有力一族であっても宗家の「家臣」になることが要求されました。
それに、九戸政実は納得がいかず反発し、三戸城での正月参賀を拒絶し、約5000にて挙兵したました。
九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)です。

九戸城

この時、九戸氏の反乱に荷担した櫛引城主・櫛引清長は、三戸勢の苫米地館を攻めていますが、失敗して九戸城に入りました。
また、久慈城主・久慈直治と久慈政則の父子も九戸城に入って籠城に加わっています。

九戸城

そのため、豊臣勢は、豊臣秀次を総大将にて、蒲生氏郷浅野長政らが、九戸勢の根反城を落とし、九戸政実が籠る九戸城を60000にて包囲しました。

九戸城の戦い

1591年9月1日に豊臣勢は、九戸城を包囲しましたが、配置は下記のように感じです。
九戸城の南側(正面)には蒲生氏郷と堀尾吉晴
猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政
白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広とアイヌの弓隊。
馬淵川を挟んだ西側には津軽為信秋田実季小野寺義道、由利十二頭らとなりますが、配置は下記のような感じです。

九戸城の戦い

九戸政実はこの大軍に激しく抵抗しましたが、半数が討ち取られます。
しかし、城は強固でなかなか落ちそうもなかったため、浅野長政は、九戸氏の菩提寺・鳳朝山長興寺の薩天和尚を九戸城に派遣します。
弟・九戸実親は猛反対し、二戸郡の畠山重勝は死んで諌めましたが、婦子女や下級武士は助命すると言う約束で、九戸政実はこの降伏勧告に応じました。

九戸城

九戸政実は弟・九戸実親に後を託し、9月4日になって七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと白装束姿にて降伏したと言います。
しかし、助命の約束は反故にされて、城兵らは二の丸に押し込められ、女・子供構わず惨殺、撫で斬りにされたうえに、火をかけられました。

九戸城

九戸城で二ノ丸跡を発掘調査した際には、刀傷を負って斬首された女性の人骨なども出ています。
そして、九戸政実・九戸実親・七戸家国ら首謀者は十八ケ崎城に送られ、9月20日、宮城県栗駒町三ノ迫の稲屋敷にて処刑されました。
家臣が首を持ち帰ったとされ、九戸神社と首洗いの池が残っています。
戦国時代としては、豊臣秀吉に反発した最後の乱でした。

九戸一揆戦没者慰霊碑

合戦のあと、豊臣秀吉の命を受けた蒲生氏郷が九戸城と城下町の復興を行いました。
この蒲生氏郷が大改修したのが、現在の九戸城の本丸、すなわち「福岡城」であることが判明しています。

九戸城

そして、南部信直に引き渡されてると、南部信直は本拠地を三戸城からこの九戸城に移しました。
松の丸を居所にしたと伝わりますが、城の名前を新た「福岡城」と改名しました。
しかし、二戸の領民は九戸政実の無念を感じてか、九戸城と呼び続けたようで、二戸城ではなく、九戸城として今日に至っています。

九戸城

なお、南部信直は慶長2年(1597年)に不来方に新たに築城し、盛岡城として、南部氏の本拠を更に移転させました。
九戸城は江戸初期の寛永13年(1636年)まで機能していましたが、そして廃城となっています。

九戸城

本丸の一部の石垣は蒲生家の穴太衆によるものとされ、肥前・名護屋城(佐賀県)や会津若松城(福島県)と同様の石垣で東北最古とされています。
三ノ丸で今は市街地となっており、遺構は残されていないようです。

九戸城

九戸城へのアクセス・行き方ですが、九戸城は二戸(にのへ)にあります。
東北新幹線・二戸駅からJRバス「二戸病院・軽米病院行」または岩手県北バス「伊保内営業所行」に乗り「呑香稲荷神社前」バス停下車、徒歩5分
いわて銀河鉄道・二戸駅からJRバス「二戸病院・軽米病院行」または岩手県北バス「伊保内営業所行」に乗り「呑香稲荷神社前」バス停下車、徒歩5分

九戸城

現在、九戸城址は史跡公園として整備されています。
なかなか立派な構えですが、復元建物は一つもないため、集客的にはいささか欠けます。
九戸政実の銅像も無いですしね・・・。
見学所要時間は無駄に迂回しなくてはならず、60分~90分といったところです。
なお、芝生はスゴク手入れされていますが、小さな虫が大量に飛んでいましたので、虫除けがあると良いかと存じます。


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駐車場は、九戸城エントランス広場前駐車場が新設されていました。
下記の地図ポイント地点となります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。

岩谷観音堂

岩谷観音堂(いわやかんのんどう)は、九戸城の天然の堀にもなっている、白鳥川の岩壁を掘った御堂になっています。
その御堂までは橋を渡って行れます。

岩谷観音堂

白鳥川が氾濫した際にも川の中から引き上げられた観音像を祀ったのがこの観音堂であるという言い伝えがあるそうです。
十一面観音菩薩像と阿弥陀如来像の2体が納められていますが、ご開帳は100年に1度と言うのでビックリですね。
誰が決めたのでしょう?
ただ、そのくらいの方がミステリアスで良いです。

岩谷観音堂の駐車場ですが、私が訪問した際には、九戸城側から降りて行く道沿いにありました。
車は北側からだと進入が困難です。

提言

以前あった、九戸城の高所にある二の丸付近の駐車場が利用できなくなっていました。
昔の駐車場(大手門)が閉鎖されたことは、二戸市や二戸市観光協会のサイトでも全く触れていません。
大手門付近や旧駐車場といったところに、土地は余っているのに、わざわざ遠くて麓になる低いところに、駐車場が新たに設置されています。
足腰が悪い方にとっては、歩く距離が長くなり、しかも登りとなったことで、見学所要時間は増えています。
私も熱中症になりかけるなど、見学するのが以前より不便だと強く感じました。

九戸城

城跡はとてもキレイにはなさっておられて、麓には九戸城エントランスと言う建物が完成していますが、これと言った新たな見どころが追加されている訳でもありません。

九戸城エントランス

インターネットサイトのコンサルを行っている私から見ますと、逆に訪問者にとっては以前より不親切・アナウンス不足になっており、とても不満が残る城跡でして、私が直接アドバイスを申し上げたくなるくらいです。
整備途中であっても、無くなったものは無くなった、移転していると公開するべきです。
岩谷観音堂の駐車場も仮設なのかも知れませんが、執筆時点では、アナウンスされていません。

八戸の根城も駐車場から本題の場所がえらい離れていて不便なのですが、もっと利用者目線で計画立案や発表をきちんとご対応頂けると、訪れる方もより多くなるのではと存じております。

東北でも、豊臣勢のそうそうたる戦国武将が攻めて合戦となった九戸城は、規模もそれなりにありますし、大変貴重な存在だと存じます。
九戸政実の名に恥じぬよう、今後、早期に改善が図られることを期待しています。

行き方・アクセスですが、東北新幹線の二戸駅より、麓のセンターまで、2.1km、タクシーで5分、歩くと約30分の距離です。

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コメント

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  • コメント (3)

    • 谷口
    • 2018年 7月 06日

    先日(6月30日)、登城しました。
    雨模様でしたので、行きは二戸駅からバスで呑香稲荷神社前まで行って、歩きました。
    晴れてきたので、帰りに岩谷観音堂に寄るべく目指しましたが、立入禁止になってました。

    余計なお節介ですが、九戸城は『岩手県』です。

  1. 谷口さま、コメントありがとうございます。
    登城、お疲れ様です。
    カテゴリ分けが間違っていましたね。
    ご指摘助かります。(^o^)

    • たまさか人 荒木
    • 2021年 4月 19日

    人生の終盤になってたまさか、東京都小平市から二戸にICT関連で二戸地区でお世話になることになりまして、街中を散策していた途中で九戸城址があることを知りました。そこで翌日、家から歩いて20分くらいだったので大手門のほうから行ってみました。九戸城址のことはまるっきり知識がなくて、行ってみて本丸付近の案内板で少し情報を得たくらいでした。そこに秀吉軍の一角として蒲生氏郷が布陣していたのを知って、近江の穴太衆を引き連れて石垣などを再普請したように説明がありました。私の故郷が近江であるので430年の時の流れがあるが、遠く近江から石組み技術者がこの二戸までやってきて築城に関わったのかとまったくもって感動しました。今では新幹線などを使ってほぼ半日程度の時間で来られるのが当時はどれだけの日程をかけてまでこの地に来て相手の九戸政実を討たんとするのか今の我々からすれば到底理解しがたい行為ではと思われます。戦国時代を生き抜く武将たちにとってはそういううものが生きがいだったのでしょうね。
    上の上ってみると丁度、桜が満開であって本丸跡地の周りの土塁上にきれいな桜の木が何本もあり、また広々とした芝生の空間は気持ちがよかった。石垣城址だけが残っている状態なのでそれほど見栄えはしないが、都会に住むほとたちとっては広々として空間が気持ちをほぐしてくれます。石垣以外は何もないのでせめて、武将政実などの武将たちの銅像や当時の館の一部を復元したものがあればもう少し観光的に耐えられるものになるのではと思いいました。
    これからの季節は小学生の遠足などにぴったりな場所ではと思いました、ハイキングコースとしてももう少し整備すればより史跡としての価値も上がるのではと思いました。ちょうど一年間、二戸でお世話になるので散歩コースにさせてもらいます。

城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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