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下総・豊田城とは
下総・豊田城(とよだ-じょう)は、茨城県常総市本豊田にある平城だと考えられる。
小貝川の西岸にあり水運も利用していたと思われ、すぐ北にある常陸・長峰城との連絡もあったと推測できる。
しかし、水害や河川敷拡張工事などでかつてあった豊田城の城域や実態はよくわからない。
近くの本豊田集落が城下だったと考えて良いだろう。
なお、下総国と常陸国は小貝川が国境と言える。
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下総・豊田城の解釈は3種類ほどある。
まずひとつ目は、平安時代の豊田城で平将門の本拠地である。
ただし、平将門時代は「豊田館」と呼ぶのが適切で諸説あるが、ここ小貝川沿いの豊田城ではなく、鬼怒川近くの向石毛城(豊田館、西館)だったと考えられるので区分して理解する必要がありそうだ。
2つ目は、戦国時代の豊田氏の豊田城だがこの豊田氏館がここの下総・豊田城と言う事になる。
3つ目は、現代の豊田城。
正式名称は常総市地域交流センターだが立派な天守の構造となっており「豊田城」と名づけられているのでややっこしい。
とにかく、常総市(旧石下町)の公共施設「豊田城」は高さ48.5mもあるため、遠くからでも目立つ建物だ。
歴史に詳しくない方だとそこが豊田城があった場所で、天守閣もあったんだと勘違いするかも知れない。
と言う事で、戦国時代に存在した下総・豊田城としてできる限りわかりやすくご紹介してみる。
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下総・豊田氏としては、平安時代後期の永承年間(1046年~1053年)に、常陸・多気山城の常陸大掾・平重幹の3男・平政幹が豊田郡(石下町、千代川村、下妻市、糸繰川以南、八千代町東南部、水海道市)を分けられて石毛に住み石毛政幹(石毛荒四郎、赤須四郎)と称したのがはじまり。
平重幹の長男・平致幹は宗家の多気姓となって多気致幹と称した。
そして、平致幹の嫡子・平直幹は房総平氏の千葉常胤の娘と結婚し、多気義幹、下妻弘幹、東条忠幹、真壁長幹を儲けている。
平重幹の次男・平清幹は吉田氏を称し、この一族からは石川氏、行方城の行方氏、常陸・麻生城の麻生氏、常陸・島崎城の島崎氏などが出た。
常陸平氏・大掾氏の惣領家に当たる多気氏(たけし)は、平将門を討伐した平繁盛の子・平貞盛の養子になった平維幹が、常陸国筑波郡多気において多気権大夫と称していた。
1062年、前九年の役で赤須四郎平政幹(平政基、平将基とも書く)は源義家に従い軍功を立てたとある。
恩賞として豊田郡の加増を受け、平将門がかつて使用していた向石毛館近く一盃館に本拠を移し、石毛政幹は豊田政幹と称した。
石毛政幹(豊田政幹、赤須四郎平政幹)の娘は、下総権介・千葉常重に嫁いでおり、千葉介・千葉常胤を儲けたようだ。
この千葉常胤は、1180年、源頼朝が挙兵した際の鎌倉入りに大きく貢献した。
11代・豊田基安は南常陸に侵攻して、弟・豊田基久を牛久城に分家した。
この頃、豊田33郷、下幸島12郷、筑波郡西部を領地としているようだ。
そして、1346年に12代・豊田善幹(よしもと)が下総・豊田城を築いて本拠を移したともされる。
よって、下総・豊田城の築城としては南北朝時代かも知れないが、それより前から小さな砦として機能していた可能性もあるだろう。
戦国時代に入ると豊田氏の支城としては金村城、長峰城、行田城、下栗城、吉沼城、袋畑城、羽生城、石毛城などが見られる。
しかし、5000石~1万5000石程度で兵力もあまりないと考えられ、下妻城(多賀谷城)の多賀谷氏から圧迫を受ける。
豊田城主・豊田政親は、小貝川にも大きく影響を持っていた手子生城の菅谷勝貞・菅谷政貞ら菅谷氏と婚姻関係を結ぶと、常陸・小田城の小田氏治に臣従したようだ。
1532年、豊田四郎政親の次男・豊田政重(石毛政重)が石毛城主となって、多賀谷重政に備えている。
1535年1月3日、多賀谷家重は向石毛城を急襲。(向石毛城の戦い)
1557年、多賀谷政経によって小田氏は海老ヶ島城を失い、下妻城へ反撃に出るも佐竹義昭に背後を突かれ、黒子の戦いで敗走していた。
そんな中、1558年5月、下妻城の多賀谷勢が豊田に進攻。
豊田城の豊田治親は重臣・飯見大膳と相談し、小田氏治に援軍を要請。
小田勢の菅谷左衛門(菅谷政貞)・沼尻又五郎(常陸・金田城の沼尻家忠)、戸崎氏ら900が駆け付けた。
多賀谷重政は、次男・多賀谷経伯(つねのり)を長峰原に布陣させるしたが、菅谷勢が驚いて逃げるなどしたので追撃した。
しかし、様子がおかしいと多賀谷経伯が気づいた時には時すでに遅く、伏兵となっていた沼尻家忠が攻勢に出た。
こうして、豊田治親と石毛政重の兄弟は、多賀谷勢を長峰原・蛇沼にて撃退することに成功している。
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1561年、石毛政重は豊田勢・石下勢の500を率いて、宍戸入道と協力して下妻の古沢宿ので進撃した。
しかし負傷したようで下妻城を目前にして帰城している。
1563年、多賀谷勢が5000にて岡田・猿島に侵攻すると、石毛政重は古間木城の渡辺周防守ら3400にて撃退した。
1573年4月、佐竹勢は常陸・藤沢城を攻撃。
これに連動するように、多賀谷政経が豊田治親の守る下総・豊田城の攻撃したが、今回も小田氏治は援軍を派遣して、金村台の戦いで多賀谷勢に勝利している。
この時、小田勢の援軍は、野中瀬入道鈍斉、沼尻又五郎、岩崎勘解由左ヱ門、片岡七郎左ヱ門、星宮又右ヱ門、小造惣兵ヱ、天野弥大夫、沼崎播摩守とされる。
長峰台に布陣した多賀谷政経は、嫡子・多賀谷郎重経、染谷三河守、岡野半平実房らを金村台に向かわせて小田勢と戦った。
豊田城の豊田治親は、飯見大膳、比企彦三郎にて多賀谷勢の横を突いたので、多賀谷政経らは敗れたとある。
1573年12月から佐竹勢が土浦城を攻撃しており、1574年2月に土浦城が陥落すると小田天菴と小田守治の親子は敗走。
この隙を突いて下妻城の多賀谷政経は、嫡子・多賀谷重経、多賀谷経家、染谷三河守、白井善通、渡辺道鉄、粟飯原加賀守、宇名野玄蕃、中島豊前守、広野、平石、森、海老原らを率いて豊田に向かった。
豊田治親は、豊田城の北にある蛇沼にて迎へ撃ち多賀谷勢を破っている。
また、豊田治親が豊田村椎木の蛇沼觀音堂を再建。
1575年9月13日、軍事力の要であった勇将・石毛政重が脳卒中のため石毛城にて死亡。
1577年、小田氏治は千葉氏・相馬氏・江戸氏の援軍も借りて手子生城を奪還して入城。
小田氏は木田余城、土浦城を、海老ヶ島城などを回復している。
しかし、1578年(天正6年)、豊田氏の重臣・飯見大膳が茶会の席にて主君・豊田治親を毒殺し、豊田城を乗っ取った。
多賀谷重経の軍師とも言える白井全洞が、飯見大膳をそそのかしたとある。
豊田治親の首は多賀谷重経のもとに送られた。
豊田氏の家臣らは石毛城に入って、逆臣・飯見大膳の身柄引き渡しと、豊田政重の遺児・豊田正家(7歳)の助命を条件に、多賀谷氏に降伏している。
多賀谷政経は飯見大膳を呼び出すと、石家勢に引き渡したので、金村郷士・草間伝三郎の手により飯見大膳は殺害された。
また、飯見大膳の一族36人の首もはねられたとあり、大宝ノ堤でさらし首になったようだ。
これらの記述は多賀谷七代記によるものだが、石毛城では豊田将親(豊田治親の弟)が籠城し、家臣ら250を集めたので、700で攻撃していた白井全洞が鬼怒川を決壊させて水攻めしたとある。
これが本当なら、1578年の段階で「石毛城の水攻め」があったと言う事になるだろう。
豊田将親ら100名の家臣らは自害し、豊田治親の妻らは出家して東弘寺に入ったと言い、常陸平氏・豊田氏は滅亡した。
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古間木城も多賀谷政経の攻略にて渡邉周防守が討死し、多賀谷氏の一族が豊田城や石毛城に入った。
1600年、関ヶ原の戦いのあと、石毛付近は徳川家の天領となっている。
交通アクセス
下総・豊田城への行き方だが、関東鉄道・常総線の南石下駅から2.6km、歩いて約35分。
クルマの場合、小貝川の堤防上の舗装道路を走行して行くことになるので、北にある長峰橋の下から登って行くと良いか?
下記のとおり、駐車スペースはある。(写真は南から北に向けて撮影したもの)
場所を当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。
・向石毛城とは~平良将の本拠地を引き継いだ平将門【下総・豊田館】
・下妻城(多賀谷城)の解説~多賀谷氏家から始まった広大な下妻城
・常陸・藤沢城~万里小路藤房【小田氏治の戦歴を詳しく】
・木田余城 信太氏の本拠地も佐竹家に奪われる
・土浦城 ほどよい広さが良い茨城の続日本100名城
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