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加賀美氏館の歴史解説~甲府盆地西部を拠点とした加賀美遠光

加賀美氏館

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加賀美氏館

加賀美氏館 (かがみし-やかた)は、山梨県南アルプス市加賀美にある平城・館跡。
現在は法善寺と言う大変立派な寺が建っている。

法善寺

最初の築城は平安時代末期で加賀美遠光となり、加賀美遠光館とも言う。
館は東西約220m、南北約170mの方形居館になっており、水堀と土塁で囲んでいたようだ。

加賀美氏館

鎌倉時代の1208年に、加賀美遠光の孫とされる加賀美遠経が武田八幡宮(山梨県韮崎市)別当・法善寺を館跡に移した。
現在、法善寺の南側の水堀が用水路として使われているようである。


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加賀美氏館の案内板は、法善寺の東にある東門の外側近くにあった。

加賀美氏館の案内板

法善寺は境内も広く大変立派と言う印象。

法善寺の案内板

結構広いので、法善寺の観光所要時間は約20分くらいと言える。

加賀美遠光とは

加賀美遠光(かがみ とおみつ)は平安時代末期の武将で1143年に甲斐で生まれた。
父は源義清とされ、母は佐竹義業の末娘(源義業の娘)とされる。
ただし、父は源清光とする説もあり、よくわかっていないが源清光の養子になったとも考えられる。
父・源義清とその子・源清光は常陸国那珂郡武田郷常陸・武田氏館を構え「武田冠者」を称していたが、平清幹の嫡男・大掾盛幹と対立。
1131年、敗北すると源義清(武田義清)と兄・源清光が、朝廷から追放されて甲斐国の市河郷に流罪となった。
この時、義清館(市川)が造営されたようで、1133年頃には市河荘司・青島庄司として領地を認められている。

そのあと1143年に加賀美遠光が誕生。
源清光の子である場合には兄に逸見光長、武田信義、弟らに安田義定、二宮清隆、河内義長、田井光義、曾禰厳尊、奈胡義行、
浅利義遠八代信清、利見義氏、河内長義、源道光、源光賢らがいることになる。

1157年、15歳になった加賀美遠光は、源義重(新田義重)の加冠にて元服し甲斐国巨麻郡加賀美郷の加々美荘を与えられたようだ。

加賀美氏館

烏帽子親の源義重(新田義重)は武田信義と交流があり、武田信義の5男・武田信光の妻は新田義重の娘である。

その後、加賀美遠光は上洛して内裏の警護をする滝口の武士(滝口武者)になっていたようだ。
1171年、宮中で怪異が起こり、高倉天皇が加賀美遠光を呼んで「鳴弦の術」を行わせたとある。
<注釈> 鳴弦の儀(めいげんのぎ)とは、弓に矢をつがえずに、弦を引いて音を鳴らす事により気を祓う魔除けの儀礼。
すると怪異が治まったので、加賀美遠光は不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたとされる。
この不動明王像は現在、身延町の大聖寺にて国の重要文化財となっている。


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加賀美遠光の正妻は杉本義宗の娘(和田義盛の妹)で、信濃・小笠原氏の祖として1162年に次男・小笠原長清(おがさわら ながきよ) 、南部氏の始祖として1165年頃に南部光行(なんぶ みつゆき)が生まれている。
長男は秋山光朝(あきやま みつとも)で、甲斐国巨摩郡秋山村を与えられて秋山氏の祖となったが生母や生年は不明。

加賀美氏館

1180年、源頼朝が挙兵すると、甲斐源氏4代当主・武田信義らと少し方針が異なるも、加賀美遠光は次男・小笠原長清と平家討伐に活躍した。
1185年、信濃国は将軍家知行国(関東御分国)とされ、加賀美遠光は源頼朝より信濃国司(信濃守)に任じられた。
信濃目代には比企能員が補任され、信濃守護職を兼務したようだ。
このように加賀美氏は厚遇された反面、前年には武田信義の子・一条忠頼が鎌倉にて暗殺されるなど、同じ甲斐源氏の中でも源頼朝からの扱いが違ってきている。
甲斐源氏の一族としては一条忠頼の他にも安田義定、板垣兼信らが滅亡せされらたが、加賀美遠光の娘・大弐局は1188年に大倉御所に入ると源頼家の養育係となって、源頼朝から大弐局(だいにのつぼね) の名を賜った。
大弐局は源実朝の養育係も務め、鎌倉幕府における女房の筆頭格になっている。


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前述したとおり、1208年、加賀美氏館跡に真言宗の古刹・法善寺を再興。
鎌倉時代としては大変長生きで、加賀美遠光は1230年に死去したとされる。享年87。

長男・秋山光朝は大井荘に出ると南アルプス市秋山に居館を構え秋山氏となった。
しかし、木曽義仲に従ったほか平家討伐の際に平重盛の娘を妻にしたので、のち謀反の罪で鎌倉において処刑されている。
<注釈> 秋山光朝は鎌倉勢に攻撃され詰め城である雨鳴城にて自害したとも伝わる。

次男の小笠原長清(加賀美次郎長清)は1181年に源頼朝の仲介で上総介広常の娘を妻にし、信濃・小笠原氏として佐久伴野荘の地頭となり信濃に本拠を移した。
3男の南部光行は南部氏の祖。
4男が加賀美光経となって跡を継ぎ、5男は於曽光俊(於曽経行)は於曾氏(おぞし)となった。
これらは、清和源氏義光流加賀美支流として、甲斐源氏の中でも一大氏族となった。

加賀美遠光の廟所

加賀美遠光公廟所は、加賀美氏館跡(法善寺)から南に350mほど行ったとところにある。

加賀美遠光の廟所

加賀美遠光の廟所はきちんと整備されている。
通称は遠光大明神。

加賀美遠光の廟所

交通アクセス

法善寺の駐車場や、加賀美遠光公廟所の駐車場がある場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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