山梨県

甲斐・一条氏館(上野城) 今は模擬天守もある一条信龍の拠点

甲斐・一条氏館

甲斐・一条氏館(いちじょうし-やかた)は、山梨県市川三郷町上野にある丘城(居館跡)で、標高は280m、比高は30mほどの高台にあります。
別名は、甲斐・上野城、一条氏屋敷とも言いますが、自治体は一条氏塁跡と呼んでいます。
最初の築城は不明ですが、甲斐・一条氏(いちじょうし)の戦国期における本拠が上野でした。





甲斐源氏4代当主で、甲斐・武田氏の初代当主である武田信義の次男・一条忠頼が分家して一条氏を称したのが始まりです。
1180年には、武田一族は富士川の戦いなどで戦功を挙げ、一条忠頼は甲斐源氏の惣領になりました。

甲斐・一条氏館

しかし、理由がよくわかっていないのですが、1184年、源頼朝から呼ばれて鎌倉に赴くと、酒宴の席で天野遠景の手にかかり暗殺されています。
その後、武田家5代の武田信光の子・一条信長が、一条家の名跡を継いでいます。

甲斐・一条氏館

一条信長の孫・一条時信は甲斐守護にもなっていますが、一族としては、教来石氏(馬場氏)、柳沢氏、折井氏、山寺氏、横手氏、入戸野氏、山高氏、白須氏、横根氏、牧原氏ら武川衆や、甘利氏、上条氏など多数輩出しました。
ただし、一条氏は鎌倉時代に断絶したようです。

一条氏館の跡には蹴裂神社がありますが、目立った遺構は残されていません。
境内には上野城の碑がありました。

甲斐・一条氏館

そして、戦国時代には、ここ上野が甲斐・一条氏の本拠地となった訳ですが、これは武田信虎の8男(9男)・一条信龍(いちじょう-のぶたつ)が、一条氏を称したことから始まります。
武田家の一門として、騎馬200騎、相備え組衆は依跡10騎、大津10騎を誇りましたが、合戦の際には前面ではなく、常に後方に控えていたようです。
武田家が駿河に進出すると、一条信龍は駿河・田中城主など、重要拠点を任されました。
長篠の戦いにも参陣し、のち駿府城主となっています。
一条信龍(一条信竜)は、武田信玄の弟ですので、遺言によって、武田勝頼の後見も務めていました。

甲斐・一条氏館

1582年、織田信忠が甲斐に侵攻した際に、一条信龍はこの上野城(一条氏館)に撤退して、子の一条信就や武田信貞らと300にて籠城しています。
そのため、穴山梅雪の道案内を受けて、鰍沢口から甲斐に入った徳川家康の軍勢10000に、包囲されました。

甲斐・一条氏館

1582年3月10日、一条信龍は死を覚悟した突撃を行い、一条信就らと討死したとされます。(諸説あり)
翌日3月11日には、武田勝頼も田野にて自刃しました。

甲斐・一条氏館

歌舞伎文化公園のふるさと会館は、天守を模した資料館ですが、建物は、近江の長浜城を模したそうです。

甲斐・一条氏館

交通アクセスですが、JR身延線の甲斐上野駅から徒歩15分ほどにあります。
大型遊具もある歌舞伎文化公園の無料駐車場が利用可能です。
駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図でも示しておきます。

甲斐・一条氏館

ちなみに、歌舞伎文化公園になっているのは、元禄歌舞伎を代表する江戸時代の歌舞伎役者である初代・市川團十郎の出身地とも?されるためです。

甲斐・一条氏館

初代・市川團十郎の曾祖父である堀越十郎は、一条信龍に仕えていたとされる武田家臣でした。
堀越十郎は、武田家が滅亡すると、下総に落ち延びて、成田山新勝寺近くに居を構えたとされています。
そのため、市川海老蔵さんも、屋号は「成田屋」と言う事らしいです。

甲斐・下山城 甲斐の南部にある穴山梅雪の本拠地
穴山信君(穴山梅雪)とは~武田家の親族衆筆頭と下山城
武田氏滅亡と武田勝頼・天目山の戦いと小山田氏滅亡

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

0
この史跡への皆様の評価→
攻略難易度
初心者向け
旧国名
甲斐
著者コメント
一般的な公園になっていますので、散策しやすいです。




皆様からのクチコミ情報

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


関連記事

  1. 甲斐・下山城 甲斐・下山城 甲斐の南部にある穴山梅雪の本拠地
  2. 岩殿山城 岩殿山城(いわどのやまじょう)~東国一の難攻不落と言われた絶壁
  3. 獅子吼城(江草城) 獅子吼城(江草城) 武田信虎の甲斐統一で最後まで抵抗した山城
PAGE TOP