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義清館(市川)の解説~武田冠者・源義清が常陸から流された地

義清館(市川)

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義清館(市川)平塩の館

義清館(市川)は、山梨県西八代郡市川三郷町市川大門にある居館で平塩の館、御屋敷とも言う。
甲府盆地を見下ろす山裾の高台にあるため、丘城・平山城とも言えるが、平安時代末期の館跡であり背後の防御はほとんど無かったようなので居館のほうが正解か?
最初の築城としては、武田冠者・源義清とされる。
下記写真は三条実美が字を書いた甲斐源氏旧跡碑(明治18年建立)が、義清館(市川)の推定地である熊野神社の境内に建つ。

義清館(市川)

平安時代、近くには735年開基と伝わる天台宗の大寺院「白雲山平塩寺」があったようだ。

源義清とは

源義清 (みなもと の よしきよ)は1075年生まれの平安時代後期の武将で、父は源義光(新羅三郎義光)、母は甲斐守知実の娘(源仲宗の娘?)である。
父・源義光は、河内源氏の2代目棟梁・源頼義の3男で、常陸国の平清幹の娘を嫡男・源義業の妻に迎えて常陸に勢力を張った。
源義業の子孫は佐竹氏となり、平清幹から譲り受けた常陸国那珂郡武田郷は源義清に与えたので、源義清は「武田冠者」を称し常陸・武田氏館を構えた次第だ。
源義清の妻は源兼宗の娘で、1110年に嫡男・源清光が生まれている。


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1127年、父・源義光が死去すると常陸では平清幹の嫡男・大掾盛幹と敵対し領地争いとなる。
1131年、敗北した源義清(武田義清)と源清光は、朝廷から追放の命を受けて甲斐国の市河郷に配流となった。
<注釈> 平塩寺の市川別当・源行房を頼ったとも。
この時、屋敷を構えたのが、この義清館(市川)だと考えられ、1133年頃には市河荘司・青島庄司として領有を認められている。

義清館(市川)

その後、甲斐目代となって中巨摩郡昭和町西条にも移住した可能性があるが、更に逸見荘(北斗市)にも進出すると子の源清光は逸見冠者を称している。
源義清は若神子城を築城して本拠を移したようだが、1145年7月23日に市河荘にて死去した模様。

義清館(市川)

子らは逸見清光、加賀美遠光、安田義定らがいるが、甲斐各地に散らばって支配を強めた。
そして、甲斐源氏の祖である逸見清光(源清光・武田清光)にはたくさんの子がいて、逸見光長、武田信義、二宮清隆、河内義長、田井光義、曾禰厳尊、奈胡義行、浅利義遠、八代信清、利見義氏、河内長義など、更に甲斐での勢力拡大に務めた。
逸見清光の子・武田信義は、武田八幡宮(山梨県韮崎市)にて元服している。


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また、戦国時代に武田氏の烽火打ち上げから始まったと伝わるのが甲斐市川の花火でもある。

交通アクセス

義清館(市川)への行き方・交通アクセスだが、JR市川本町駅から歩くと坂道を上るが、750m、徒歩15分くらいと近い。
また、近くに観光用の駐車場もあるようだが、熊野神社の東に新しい道路ができ、その路肩にクルマを止めるスペースがあった。


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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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