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村木砦の解説「信長鉄砲隊初出陣」村木砦の戦い

織田信長戦いの跡

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村木砦の戦い

天文20年(1551年)尾張の織田信秀(おだ-のぶひで)が死去すると、跡を継いだ織田信長(おだ-のぶなが)に不安を感じた山口教継(やまぐち-のりつぐ)が離反。
後奈良天皇(ごなら-てんのう)の綸旨によって織田・今川間の停戦が成っていたにも関わらず、天皇からの停戦を破って赤塚の戦いを起こした織田信長(おだ-のぶなが)を周囲は「うつけもの」と呼ぶようになりました。

周囲の状況と合戦まで

三河松平氏を傘下に収めた今川義元(いまがわ-よしもと)は山口教継の鳴海城(なるみ-じょう)を始めとして、寺本城(てらもと-じょう)の花井信忠(はない-のぶただ)、勘八父子を味方に引き込むと、西三河で織田信長に味方する緒川城(おがわ-じょう)主である水野信元(みずの-のぶもと)配下の山岡伝五郎(やまおか-でんごろう)が守る重原城(しげはら-じょう)を圧倒的な武力で攻略します。
重原城を攻略した事によって織田信長の支配地域を南北に分断する事に成功した今川義元は、知多半島一帯に勢力を持つ水野信元に狙いを付け、本拠の緒川城から2km程北側の村木村に1千の兵を送り込み、河畔の砂丘上に砦を築いて攻略の拠点にします。
水野信元は織田信長に援軍を依頼しますが、清州織田家との戦いの真っ最中だったため援軍を送る事ができず、砦を築かれてしまいました。
村木砦の戦い

萱津の戦いで清州織田家の力を削いだ織田信長は、水野信元の要請に応じて村木砦を攻略すべく軍勢を発しようとしますが、守護代としての清州織田家の力は侮りがたく、留守中に本拠である那古野城(なごや-じょう)を攻撃される恐れがあるため、妻の濃姫の実家である美濃の斎藤道三(さいとう-どうさん)に援軍を依頼。
天文23年(1554年)1月18日、斎藤道三は安藤守就(あんどう-もりなり)に田宮・甲山・安斎・熊沢・物取という5人の家来と1000人の兵を付けて尾張に派遣。1月20日に美濃勢は那古野城の北に陣を張ります。

1月22日清州織田家に対しての守りを手配した織田信長は、陸路は今川勢に遮断されているため熱田から船で知多半島に向かおうとしますが、伊吹おろしの強風の中で船を出させようとしたため、林秀貞(はやし-ひでさだ)・林通具(はやし-みちとも)の兄弟が戦列を離れてしまいます。
しかし、織田信長は転覆を恐れる船頭達に命じて船を出させ、木田城(きだ-じょう)の近くに上陸。

木田城主の荒尾善次(あらお-よしつぐ)は大野城(おおの-じょう)主である佐治信方(さじ-のぶかた)の弟で、荒尾家に養子として迎え入れられた人物で、佐治信方の妻は織田信長の妹にあたる於犬の方で、織田家とは縁戚関係になっている人物です。
木田城で宿泊した際、荒尾善次の娘を見た織田信長は、弟である織田信時(おだ-のぶとき)に娘を嫁がせますが、後に織田信時が守山城(もりやま-じょう)主となった時に前城主の家臣に謀殺されたため、乳兄弟の池田恒興(いけだ-つねおき)に再嫁させ、後に池田元助(いけだ-もとすけ)や池田輝政(いけだ-てるまさ)らを産みます。池田恒興は荒尾家を家臣として迎え入れ、その後江戸幕府で大名となった池田家の外戚として家老職を得た荒尾家は幕末まで名を残しますが、これはまた別のお話。

翌朝に木田城を出発した織田信長は知多半島を東進(知多半島を南から回った等、諸説有)し、緒川城へ到着。南から現れた織田信長を見た城主の水野信元は『いったいどこから現れた!?』と驚愕したと伝えられています。

いざ開戦

1月23日、緒川城で軍議を開いた織田・水野連合軍は、翌日には村木砦を攻略するべく軍を発進。
戦いは朝辰の刻(8時頃)から始まりました。
村木砦に籠る今川軍は300人余り、これに対し水野軍は東側にある川沿いに船を並べて封鎖した上で大手にあたる東門を攻撃。
織田信長は湾曲した堀を設けてあり攻撃が困難な南側を受け持ち、砦から放たれる弓が届かない距離から鉄炮を撃ちかけます。
この時の鉄炮隊は後世に有名になった長篠合戦のように組織だってはいませんでしたが、鉄炮を放つ人の周りに数名が配置されて掃除や火薬などを詰める作業を行った組み討ちだったとも言われています。
砦を守る今川勢は弓の届かない距離から間断なく放たれる鉄炮玉と発射音に怯む中、西側の搦手門を受け持った織田信光(おだ-のぶみつ)が急襲を掛け、堀にかかる橋を突破して六鹿椎左衛門が1番乗りを果たします。
砦内に突入を許した数時間後に今川軍は降伏し、村木砦の戦いは織田・水野連合軍の完勝に終わりました。
村木砦跡

戦後の状況と現在

戦いの終わった後、山間の広場に軍を集めた織田信長は武将から雑兵にいたるまで手を握って労をねぎらい祝勝会を行いました。その場所は現在も『飯喰場(いぐいば)』と呼ばれています。
祝勝会を終えた織田軍は知多半島を西へと戻り、今川軍に寝返った寺本城下にも火を放ち存分にその力を見せつけた後で海を渡り那古野城へと帰還しました。

織田信長の帰還を迎えた安藤守就は戦の状況を聞いた上で美濃に戻り、斎藤道三に報告をします。この時、斎藤道三は「隣の国にそのような猛将がいることは恐ろしいことだ、我息子達もいずれ織田信長の足元にひれ伏すことになるだろう」と言った事は有名な逸話です。

戦いの後、村木砦は焼き払われ江戸時代を通じて畑となり、堀なども埋め立てられました。明治18年(1885年)には砦の中に鉄道が敷設され、昭和39年(1934年)にはその隣に県道が通ったため、砦の遺構などは跡形もなくなっています。

村木砦

村木砦跡・飯喰場・村木神社(所要時間:約90分)
JR武豊線の森岡駅で下車すると、駅前に『織田信長戦いの跡』の看板が立てられていますので、この看板に従って回ると判りやすいと思います。
なお、村木砦跡がある八劒神社には駐車スペースはありませんので、徒歩での訪問をお勧めします。
飯喰場

●緒川城
知多郡東浦町緒川古城
城址碑と土塁、於大の方出生地の碑などがあります。
城址は小公園となっていますが、駐車スペースはありませんので、車で訪問される方は東浦町役場に駐車して、そこから徒歩で向かう事になります。
なお、町役場駐車場の北側には城跡にある城址碑とは別に、初代の城址碑が現存しています。

●寺本城
知多市八幡町堀之内78
小山の上に立つ津島神社が本郭とされています。
こちらも駐車スペースはありませんので、徒歩での訪問となります。

●木田城
東海市大田町城山
城跡は個人宅になっているため、訪問は避けてください。
すぐ東には天尾神社があり、そこから南東に500m程先、国道155号線の信号交差点は『内堀南』となっていますが、木田城の遺構と関連があるかは不明です。

(寄稿)だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
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