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上杉謙信が布陣した臨時の砦
謙信一夜城は、千葉県佐倉市王子台3丁目にある上杉勢の本陣跡(付城跡)となり、別名は王子台砦です。
戦国時代の1566年、関東管領・上杉謙信は、春日山城から関東に入り、北条氏になびいた常陸・小田城を攻略しました。
そして、北条氏の勢力をそぐため、続いて、千葉氏を攻撃しましたが、1566年3月、下総・臼井城も攻撃した際に、本陣を置いた場所が、この王子台砦になります。
上杉勢としては、片野城主・太田資正らが先陣で、越後・本庄城主の本庄繁長が第2陣のほか、館林城主・長尾顕長ら15000が、王子台砦付近に布陣したようです。
対する臼井城では、僅か2000の原胤貞、白井胤治(白井浄三)、原胤成、高城胤長らが迎え撃ち、3月20日から「臼井城の戦い」となりました。
臼井城の、白井胤治(白井浄三)は、大手門に敵を引き寄せると、建物を倒して下敷きにしたと言うような軍師としても記録されています。
しかし、上杉勢の猛攻により、臼井城は、堀も、残りひとつとなり、本丸も落城寸前になります。
そこに、3月23日、北条氏政の重臣で、富津の上総・大和田城に出陣していた松田康郷の100騎が駆け付けました。
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この北条勢は、上杉本陣の前まで切り込む奮戦を見せて、上杉勢を撃破したともあり、このチャンスに、白井胤治(白井浄三)は、城から討って出たようで、上杉勢は厩橋城・北条長国(北条高広)、越後・新発田城の新発田治長らが殿軍となって退却しました。
この臼井城の戦いで、上杉勢は5000名以上の死傷者を出し、上杉謙信、最大の敗戦とも言われます。
しかも、敵将が大名クラスではない、武将に、上杉勢は敗れたとも言えます。
ただし、臼井城の戦いを、上杉謙信が直接指揮した形跡が、私が調べた範囲では、見られない事も、明記しておきます。(どこに上杉謙信がいたのか?不明)
この苦い敗戦となった「臼井城の戦い」は、上杉家において、無かったことになっており、全く記録が残っていません。
そのため、実際には、上杉謙信がいた可能性は残ります。
もっとも、日本海側から、こんな太平洋側まで、遠征する上杉勢には、ほんと、ビックリさせられますが・・。
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打撃を受けたものの、上杉勢は、謙信一夜城(王子台砦)にその後も留まったようですが、室町幕府・足利将軍の足利義昭から、上杉謙信に対して「北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように」と、要請の使者が到着したともされ、田植えの時期も迫った上杉勢は、4月中旬に完全撤退しました。
この結果、小田原城の北条氏に従っていた、原氏・千葉氏が勝利したことかせ、関東の諸将はより一層、北条家に傾いていきます。
1569年、上杉謙信は北条氏と越相同盟を結び、関東から手を引きました。
現在、高台には住宅地が広がっており、その一角に「児童公園」があり、ひときわ大きな石碑が建っています。
しかし、遺構や解説版的なものはありません。
現在は、区画整地された住宅街となっておりますが、事前の予想に反して、大変、なだらかな「丘」と言う感じでして、この地勢では、展望は、効かないと思います。
戦国時代は、多少、小高い山になっていたのを、土地改良で崩したのかも知れません。
交通アクセス
謙信一夜城(王子台砦)への交通アクセス・行き方ですが、京成本線「京成臼井駅」南口から300mくらいの距離です。
公園には駐車場もないので、車で来る場合は注意が必要です。
当方は、ウエルシア佐倉王子台店さんに、買い物がてら止めさせて頂いて短時間訪問致しました。
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