小栗城とは
小栗城(おぐり-じょう)は、茨城県筑西市(真壁郡協和町)小栗にある平山城で、標高100m、比高は40mほどになります。
北側には小貝川が流れており、天然の水堀として堅固です。
小貝川の対岸は、栃木県真岡市になりますので、常陸と下野の国境を守る城でもありました。
最初の築城としては、平安時代末期に小栗氏が築城したとされます。
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恐らくは西麓にある根古谷地区や、東麓の集落などに屋敷を構えて、山城は詰城と言う事でしょうが、小栗氏は常陸・大掾氏の分家である石毛氏の分家となります。
なお、常陸大掾氏の大掾重幹の子・大掾重義が小栗城に入って小栗五郎(小栗重義)を称したともあります。
大掾氏は、筑波の多気山城を本拠としていました。
2代・小栗重成は、常陸国では唯一の伊勢神宮の神領となる小栗御厨の下司(地頭)となって「小栗判官」と呼ばれました。
1180年、富士川の戦いで勝利した源頼朝は、いまだ従わない佐竹義政・佐竹秀義を討伐するへく金砂城を攻撃し、金砂城の戦いにて勝利しました。
その帰り道、小栗重成の館に宿泊しています。
また、1183年、信太荘(稲敷)の志田義広が挙兵した野木宮合戦(野木宮の戦い)では、源頼朝の要請を受けて小栗重成は源氏勢の小山朝政に味方しました。
小栗満重
室町時代の1416年に上杉禅秀の乱となると、小栗満重(おぐり-みつしげ)は関東管領・上杉禅秀に従い戦いました。
しかし、足利公方・足利持氏が勝利したため、小栗御厨の一部を失いました。
小栗満重は鎌倉公方・足利基氏に所属する武将でしたが、室町幕府の京都扶持衆でもあり鎌倉公方に反抗的でした。
ちょっとわかりにくいので、解説しますと、足利家でも最も尊重されるの室町幕府の将軍です。
その室町幕府が、関東統治のために置いたのが鎌倉公方で、その鎌倉公方を補佐して助けるのが関東管領の役目です。
しかし、鎌倉公方は次第に室町幕府と対立し、将軍の座も狙うようになりました。
そのため、関東・東北の武将と、室町幕府は直接主従関係を結んだのが京都扶持衆と言う事になります。
そして、足利持氏が鎌倉公方になると、関東管領・上杉禅秀が更迭されたため、上杉禅秀の乱となったのです。
室町幕府としては、鎌倉公方を抑えたいため、京都扶持衆の武将らは中立の立場を取るか、上杉禅秀に味方するかで、鎌倉公方と敵対しました。
そして、室町幕府の働きかけに応じ、1422年、小栗満重は、宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと「小栗満重の乱」を起こし、下総・結城城を攻略します。
1423年、足利公方・足利持氏は自ら大軍を率いて出陣し、小栗城を攻撃したため落城しました。
信濃・大井城主の大井持光が小栗満重の首を取ったとも、小栗氏は三河に逃れたとも言われています。
下記は菩提寺である太陽寺の境内にある、小栗孫次郎平満重公と家臣の供養塔です。
その後、小栗御厨は安房守護・上杉定頼に与えられています。
ここで、小栗判官伝説をご紹介します。
小栗判官伝説
小栗城が落城した際に、小栗満重は逃れたと言う説がありますが、これがまた、三河だけでなく紀伊半島などにも、逃れてきたと言う伝承があちこちにあります。
このように小栗判官伝説があるのですが、一般的には下記の通りの内容です。
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相模(藤沢?)にいた知人の横山大膳(横山太郎)という人物を頼ったとされ、そのとき、横山氏の娘・照手姫と恋仲になりました。
ところが横山大膳は、小栗氏の首を差し出して、褒美を得ようとし、宴会を開いて毒が入った酒にて殺害を図りました。
小栗満重の郎党(小栗十勇士)は毒にて死去しましたが、小栗満重は遺棄されたところを僧侶に助けられて、手厚い看病を受けたと言います。
そして、紀伊半島に逃れると、特に熊野権現の霊験と温泉の効果で回復して行ったと言います。
その温泉が熊野本宮大社からほど近い湯の峰温泉です。
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色々な話の展開があるのですが、照手姫は小栗判官が生きていると知って、跡を追いましたが、追っ手に捕まり、以後は、下女として働かされたともあります。
元気になった小栗満重は、裏切った横山大膳を討ち、下女になっていた照手姫を救出して夫婦にり、小栗城も奪還したともあります。
このあたりも、説経節や浄瑠璃、歌舞伎など多くで脚色され、色々なパターンの話になっているのが、各地に残る、小栗判官伝説です。
なお、小栗助重がモデルだとする説もあります。
小栗助重
室町幕府の将軍・足利義教に反抗した末に、足利持氏が永享の乱を起こして自害します。
そのあと、1440年、遺臣らが足利持氏の遺児(足利春王丸・足利安王丸)を擁立し、木所城にて挙兵しました。
そして、結城氏朝を頼って結城城に入り、足利春王丸は、小栗城に籠城したともあります。
そして、小栗助重(おぐり-すけしげ)は、結城合戦にて武功を挙げて、旧領への復帰と小栗氏の家名回復を許可されました。
ただし、1455年、分倍河原の戦いなどの享徳の乱のとき、 敗れた扇谷・上杉持朝の家宰である長尾景仲が、小栗助重(小栗小次郎助重)を頼って小栗城に逃れます。
そのため、足利持氏の残りの遺児である足利成氏の攻撃を受けて陥落しました。
没落した小栗助重は出家して、宗湛(そうたん)と号し、事実上、小栗氏は滅亡しました。
足利持氏は、古河公方となっています。
その後、戦国時代には宇都宮氏の家臣で、常陸・坂戸城の小宅氏が小栗城を居城としました。
1552年、小宅尚時は、結城政勝に攻められて、小栗城を奪われていますが、1560年には、宇都宮城主・宇都宮広綱が奪還しています。
1564年、常陸・小田城の織田家家臣である信太頼範が攻めた際には、小宅尚時は常陸・坂戸城に籠城しています。
しかし、坂戸城が落ちると、小宅尚時は小栗城へ逃れましたが、宇都宮勢が反撃して信太頼範を討ち取り、小宅氏は坂戸城も回復しています。
1597年、豊臣秀吉の命にて宇都宮国綱が改易になると、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、小栗城は廃城になった模様です。
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幕末の勘定奉行である小栗上野介(小栗忠順)は、小栗満重の乱の際に、三河に逃れた一族と推測される、小栗正重の娘から発生した、三河小栗氏です。
交通アクセス
常陸・小栗城への交通アクセス・行き方ですが、クルマの場合、内外大神宮の駐車スペースに、車を置いて登るのが良いです。
道はありますが細くて軽自動車でないと厳しいため、内外大神宮に止めて歩いて行くと良いでしょう。
地元の方の手作り標識がありますので、迷う事はないと思います。
登城する場合には、本丸までの所要時間は20分ほどのようです。
この日は、熱中症警戒で麓だけにしました。
それでも、帰宅してからは頭痛が・・。
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