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信濃・大井城~佐久を治めた小笠原一門・岩村田大井氏の居城

信濃・大井城

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鎌倉時代から佐久の東部で勢力を誇った、大井氏の本拠地で湯川の断崖に沿う立地となっています。
北から石並城(いせならびじょう)、王城、黒岩城の三城が、天然の堀切に分割されており、その総称として大井城と呼ばれていると言って良いでしょう。
岩村田城、岩村田館とも呼ばれることがあります。

清和源氏小笠原長清の7男・大井朝光が、宇治川の戦いの戦功により大井庄12郷の地頭となったのが始まりです。

1335年、中先代の乱の際には、後醍醐天皇に反乱軍を起こした足利勢(北朝)に味方した4代城主・大井朝行(大井行時)でしたが、東山道を鎌倉に向けて進む朝廷軍(南朝)1万余を佐久で迎え撃っています。
しかし、奮戦虚しく大井城は落城しました。

ただし、滅亡したわけではなく、南北朝時代には、信濃守護・小笠原政長のもとで、大井光長が信濃守護代を努めています。

1400年、6代・大井光矩のとき大塔合戦では、信濃守護・小笠原長秀と国人衆(大文字一揆)との間を仲介し、敗走した小笠原長秀を助けました。


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全盛期は大井持光のときで、所領は6万貫であったと言われています。
繁栄期の大井城の城下町は「応永年中、大井越前守(大井持光)、関東管領足利持氏公に仕えて武功三軍に出たり、したがって大井の城も盛大なり。」
または「民家六千軒、交易四達し、賑い国府(深志城)にまされり」と評されています。

1438年、永享の乱がとなると、大井持光は足利持氏の遺児・永寿王丸(古河公方足利成氏)を安原の安養寺にて保護しました。

8代・大井政光のときには、文明4年(1472年)に甲斐へ侵攻を試みています。
しかし、文明9年(1477年)に、逆に甲斐勢が佐久に侵攻していますが、防衛には成功しました。

1484年、坂城主・村上政清が大軍を持って大井城を攻撃しています。
この時、大井城は落城し、栄華を誇った城下町も焼失しました。
大井城主だった大井安房丸(おおい-あわまる、19歳)は、小諸城に逃れ、260年近く支配した岩村田大井宗家は滅亡しました。

そのあと、大井氏本家は、甲斐武田流である長窪城の大井玄慶が継いで、 明応2年(1493年)には大井城主として龍雲寺を再興し、城下町の復興に努めています。
跡を継いだのは大井忠孝(大井康光)で、その次には、戦国時代に活躍する大井貞隆と続きます。
岩尾・耳取・芦田・相木など、各地に居住する大井一門は、長窪大井氏に従いました。

甲斐の武田信虎が佐久を狙いますが、岩村田大井一門でもある平賀城主・平賀玄信(大井玄信)が、海ノ口城にて防衛しています。
しかし、武田晴信の奇策によって討ち取られました。

平賀玄信の孫・平賀政継は、信濃・耳取城を攻め取ると、耳取大井氏と呼ばれます。
そのあと平賀政成は、武田信玄武田勝頼に臣従しましたが、武田家滅亡の際に、徳川家康に従い、依田信蕃に属すと、大井家の惣領職および本領信濃国佐久郡耳取の地3000貫を安堵されています。

1543年には、大井貞隆が敗戦して武田信玄の捕虜となりました。
内山城に拠る大井貞清、大井貞重の父子、小室城の大井高政、岩尾城の岩尾弾正忠行頼などが抵抗しましたがやがて降伏します。
岩村田城主(大井城主)となっていた、大井貞隆の弟・大井貞清も、まもなく武田家に降伏して組み込まれ、のち長篠の戦いにて討死しました。
その後、大井城(岩村田城)の城主となっていた大井雅楽助は、徳川家康に味方した依田信蕃に下って、大井城を明け渡しました。


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現在の大井城主郭部は、王城公園となっており、明確な遺構は残っていません。
また、駐車場がなく、クルマが止められないので、見学を断念しています。

ただし、JR東日本の小海線「岩村田駅」からですと、徒歩で10分くらいの距離です。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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