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七尾城の解説 畠山義統と畠山義総 上杉謙信との七尾城の戦い 【日本100名城】

七尾城

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七尾城とは

能登・七尾城(ななお-じょう)は、石川県七尾市古城町にある、標高300mの連郭式山城で、比高は250mもある堅固な城です。
別名は、能登・松尾城、末尾城とも書き、国の史跡と、日本100名城にもなっているほか、日本五大山城と称されています。
日本五大山城は、春日山城月山富田城観音寺城、近江・小谷城、そして七尾城と言う事になります。


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最初の築城は不明ですが、一般的には、1408年から1577年まで、能登国の守護を務めた畠山氏の初代である畠山満慶が、正長年間(1428年~1429年)頃に築城したとされます。
ただし、最初はもちろん「砦」(とりで)程度の規模だったと考えられています。
本拠としては、守護所として府中館が、現在の七尾市の七尾高校付近にあったもの推定されています。
となると、詰の城は、能登・小丸山城と考えられますが、七尾城からは七尾湾の展望も良いことから、見張り台としての役割も担ったのでしょう。
なお、能登・畠山氏は、主に京都に滞在して、所領の支配は能登守護代の遊佐氏に委ねていました。
そして、3代・畠山義統のときに、能登に赴いて守護大名として直接統治を開始しました。

七尾城

畠山義統(はたけやま-よしむね)は、応仁の乱のあと、能登にやってきました。
能登守護代としては遊佐統秀(ゆさ-むねひで)がいます。

七尾城

そして、越後守護の上杉房定と姻戚関係を結ぶと、富山方面・越中への侵攻を試みています。
なお、応仁の乱で京都は荒廃していたため、文化人でもある畠山義統を慕って、多くのが能登に移り住んだと言います。
こうして戦国時代に入ったことから、強固な城が必要になり、七尾城は、徐々に改修されて行ったものと推測されています。

七尾城

1497年、畠山義統が死去すると、家督は子の畠山義元が継ぎましたが、統率力がなかったとされます。
そのため、重臣の遊佐統秀は、畠山義元を追放し、弟の畠山慶致(はたけやま-よしむね)を当主に据えます。

七尾城

しかし、一向一揆も発生し、足利義稙が室町幕府の将軍に復帰すると、幕府に協力していた畠山義元は将軍の側近になり、能登・畠山氏の当主にも復帰しました。
弟・畠山慶致も復帰には従っており、自分の嫡男・畠山義総を兄の養嗣子としました。

七尾城

そのため、1515年に畠山義元が死去すると、家督は畠山義総が継いでいます。

畠山義総

7代当主になった畠山義総(はたけやま-よしふさ)は、能登・畠山家において最大の名君となりました。
京から戦乱を逃れてきた連歌師や公家などの文化人も迎えたため、七尾は小京都と呼ばれるほど栄えたと言います。
また、足利義晴や朝廷に盛んに献金などを行い、能登での権威を高めました。
このように畠山義総は、実父・畠山慶致と共に統治を行い、七尾城を名城と呼ばれる大改修を施し、居城を移しました。

七尾城の石垣

また、越後・長尾氏、越中・遊佐氏、神保氏などと、両越能三国同盟を成立させました。
更に、六角定頼と婚姻関係を結ぶと、その縁で石山本願寺とも和睦し、加賀や能登の一向一揆とも提携して北陸を安定させました。
1545年、畠山義総が死去し、畠山義続が家督を継ぎましたが、家臣団による権力争いが頻発します。

七尾城

1550年には、重臣の遊佐続光と筆頭の温井総貞の争いがはじまり、七尾城も一部が焼けるなどしました。
「能登天文の内乱」となると、勝利した天堂城主の温井氏が、能登畠山氏の実権を握ります。
そして、畠山七人衆と呼ばれた7名の重臣(伊丹総堅、平総知、長続連、温井総貞、三宅総広、遊佐宗円、遊佐続光)が合議制で能登の政治を行うようになりました。

七尾城

この責任を取る形で、畠山義続は隠居して、嫡男の畠山義綱(はたけやま-よしつな)が第9代となっています。
そして、1555年、権力回復を目指した畠山義綱は、近臣の飯川義宗と共に、温井総貞(ぬくい-ふささだ)を罠にかけて暗殺しました。
畠山義綱は重臣らの権力を削ぎ、七人衆体制を終わらせ、しばらくは安定期を迎えました。

七尾城

しかし、1566年、長続連・遊佐続光らによる武装蜂起(クーデター)が発生し、畠山義綱は父・畠山義続、近臣・飯川光誠らを追放されました(永禄九年の政変)。
追放された畠山義綱は、婚姻関係の近江・六角氏を頼り、琵琶湖西岸の坂本に逃れています。
1568年、六角氏・上杉氏・神保氏の協力を得て、能登奪還を試みましたが失敗しました。

七尾城

遊佐続光、長続連、八代俊盛らは、畠山義綱の嫡男・畠山義慶(はたけやま-よしのり)を当主に据えて傀儡政権を作っています。
そして、1574年に、遊佐続光と温井景隆らは畠山義慶を暗殺したようで、弟の畠山義隆が能登・畠山氏の第11代当主になっています。
しかし、その畠山義慶(はたけやま-よしのり)も2年後の1576年に急死しました。
そのため、まだ幼少の畠山春王丸が擁立されますが、実権は重臣の長続連に握られていました。

七尾城

1577年、上杉謙信が能登に侵攻し、七尾城が包囲されます。
この七尾城の戦では、長続連、温井景隆、遊佐続光らは七尾城にて籠城しました。

七尾城

七尾城は、大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城です。
七尾という名前は「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から名付けられたと言われています。
難攻不落の堅固な山城でしたので、数々の城を攻略してきた、上杉謙信もせめあぐねた為、調略も行ったようです。
そんな折り、小田原城北条氏政が越後を狙う動きを示したため、上杉謙信は、越後に帰国しています。

七尾城

ただし、上杉勢は、能登に留まっており、能登・熊木城には三宝寺平四郎・斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次、黒滝城には長景連穴水城には長沢光国・白小田善兵衛を、能登・甲山城には、轡田肥後・平子和泉を、富来城には藍浦長門、石動山には上条織部・畠山将監を配置して、囲みを続けました。
しかし、七尾城の重臣欄は討って出て、蹴散らしています。
ただし、すぐに上杉謙信が戻って来たため、長続連らは再び七尾城に籠っています。

七尾城

そして、長続連は、子で僧侶の長連龍安土城に派遣すると、織田信長に援軍を要請しました。
こうして、柴田勝家を総大将にした織田勢が能登へと向かいます。

七尾城

援軍を待ち望むところでしたが、七尾城では疫病が発生したようで、5歳の畠山春王丸も、城内にて病死したとあり、事実上、能登・畠山氏は滅亡しました。
七尾城は落城寸前となり、上杉謙信は上条政繁・長尾与次郎・島津淡路を使者として送ると、遊佐続光、温井景隆、三宅長盛らに内応を呼びけて、城内にて反乱を起こさせました。
この反乱にて、長続連と子の長綱連、長綱連の弟・長則直、長綱連の子・竹松丸と弥九郎など長氏の一族はみな殺しとなり、七尾城は上杉勢が占領しました。

七尾城

上杉謙信は、七尾城から見た月に風流を感じて、明媚な景色にうっとりし、歌を詠んでいます。

七尾城

この七尾城落城の情報は、一向一揆に阻まれて、なかなか、進軍スピードが遅かった柴田勝家には届かず、約1週間後、名高い「手取川の戦い」となった訳です。

七尾城から小丸山城方面

七尾城主には、上杉家で越中・新庄城にいた鯵坂長実(あじさか-ながざね)が任命されています。
1578年、上杉謙信が死去すると、遊佐続光と温井景隆は織田信長と結び、1579年に七尾城から鯵坂長実を追い出しています。
しかし、織田勢が1581年に能登に入ると、遊佐続光・遊佐盛光と温井景隆は、かつて上杉勢に内応したことを問われたともされ、歴史から名が出て来なくなっています。(諸説あり)

七尾城

七尾城には、織田信長の側近であるの菅屋長頼(すがや-ながより)が入りました。
この菅屋長頼が、信長の命を受けて、七尾城に遊佐続光・遊佐盛光・伊丹孫三郎らを呼び出して処刑したともされていますが、生き残りである長連龍の穴水城を安堵しています。

七尾城

そして、菅屋長頼は能登で不要な城を破却すると、後任の前田利家能登・菅原城から移して引継ぎし、織田信長の側近(馬廻衆)として京に戻って、堀秀政長谷川秀一・矢部家定・福富秀勝らと合流しました。

七尾城

その後、1582年、明智光秀による本能寺の変の際、京都にいた菅屋長頼は、織田信忠の元に駆けつけて二条城にて討死しています。

七尾城

なお、前田利家は、七尾城に一時は入ったようですが、すぐに拠点を小丸山城に移しました。
そして、七尾城は次男・前田利政に与えていますが、前田勢は、越中・魚津城の攻撃など、忙しく動いています。
しかし、豊臣秀吉小田原攻めの前、1589年に七尾城は廃城となりました。

七尾城

なお、遺構はよく残っており、本丸の石垣を中心に各曲輪の石垣も現存しています。

七尾城

七尾城への行き方

七尾城への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、JR七尾線の七尾駅から市内巡回バス「まりん号」東回りに乗車して約15分、城史資料館前バス停にて下車して、本丸まで登ること徒歩約60分となります。
ちょっと距離はありますが、七尾駅観光案内所からレンタサイクル(貸自転車)でも良いでしょう。
電動アシストの自転車も3台だけあるようです。
麓から歩いて登城すると片道40分くらいの登り坂となります。

七尾城

本丸には城山神社がありますが、徒歩5分ほどの場所の山の上に、無料の駐車場がありますので、車での登城には大変便利な日本五大山城です。
当方のオリジナル北陸地図にて駐車場の場所をポイントしておきます。

通行止情報

※現在は通行できるようですが、過去の情報としてご参考までに残しておきます。
事前に七尾市のサイトなどを拝見していても、気が付かなかった、情報が公開されていない?ようだったのですが、訪問してみましたら、道路が通行止めでした。
七尾城の麓から登っていく道路ですと車の場合約5分程度で到着できるのですが、がけ崩れの復旧工事で通行止でした。
2018年9月の台風で被害が生じていたようです。

七尾城 通行止

県道177号の入口から「通行止」の案内があったのですが、念のため、進んでみても、工事中でダメでした。
眺望カフェJ,Roadさんまでは、クルマで行けます。

七尾城 通行止

仕方なく、登城を断念しようと思ったのですが、迂回路を思い出したので、グルッと、迂回して向かいました。
ただ、迂回しますと、4倍くらい距離が長くなり、約25分の山の中でカープも多い遠回りの道でした。
車に酔いやすい方は、確実に良いそうな道ですし、カーナビも必須です。
しかし、迂回して、なんとか本丸下の駐車場には無事に到着致しました。
その駐車場から七尾市街地に下がっていく道路は、やはり通行止の表示になっておりました。

七尾城が通行止

復旧工事の終了予定は、未定と申しましょうか、当分の間となっています。
復旧完了し2019年6月14日に、通行止が解除されて通行ができるようになりました。

日本100名城スタンプは、麓にある七尾城史資料館の場所にあり、七尾城に関する展示なども拝観可能です。
御城印の販売も資料館です。


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七尾城の見学所要時間ですが、駐車場から本丸までは片道10分ほどの距離です。
くまなく見ると、結構広いので60分くらいは必要かと存じます。
夏場は、熱中症対策と、虫除けを。

続きは小丸山城のページにてどうぞ。

2024年1月1日の能登半島地震にて、七尾城の石垣も一部が崩壊したようです。
地震にてお亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災されました皆様に心からお見舞い申し上げます。
また、被災者の救済と被災地の復興支援のためにご尽力されている方々に深く敬意を表します。
能登の皆様の安全と、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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