丹後・石川城は、京都府宮津市(与謝野郡野田川町)にある山城です。
別名は石川山城とも言いますが、石河城と書く場合もあります。
標高は135m、比高は125mとなります。
玉の木の清水川が大手口で、玉峠側が搦手とされます。
なお、すぐ南には、出城と考えられる、石川高津城(愛宕山城)があります。
丹後・石川城は重要視されていたようで、しばらく、一色一族の者が城主を務めていたようです。
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歴史に丹波・石川城(いしかわじょう)が登場する事案と致しましては、1406年に家督を継いだ一色満範(いっしき-みつのり)の話で出てきます。
一色満範は、父・一色詮範と共に、本拠となる建部山城を築いた若狭国・三河国の守護です。
しかし、家督を継ぐと、父の家臣団と、一色満範が新たに丹後で召し抱えていた家臣団とで、新旧家臣団の勢力争いとなります。
そのため、当主になった4ヶ月後に、三河守護代として三河の一色領を預かっていた小笠原明鎮・小笠原長頼の父子を謀反の疑いで捕縛し、京都の一色満範の屋敷、その後、丹後・石川城に連行すると監禁しました。
小笠原長春は、小浜八幡宮の裏山で鹿狩りを行ったと言う記録もあります。
そのため、1408年、三河では小笠原明鎮の弟(または叔父)である小笠原長正が蜂起して、三河幡豆郡で一色税と交戦しました。
しかし、一族郎党と共に敗死しています。
ところが、一色満範は1409年1月6日に没します。
一色義貫(いっしき-よしつら)が跡を継ぐと、その2ヶ月後に、小笠原明鎮・小笠原長頼の父子は、丹後・石川城にて切腹を命じられています。
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戦国時代には、一色義遠が石川城に入っていたと言う記録もあります。
1517年には、一色義遠は石川城から出陣し、若狭の武田元信を攻撃しましたが、朝倉孝景が武田家に援軍を送ったため、戻っています。
細川藤孝が建部山城を攻撃した際には、金谷義俊(金谷伊豆守義俊)が石川城主でした。
丹後・中山城も落城すると、金谷義俊は一色義定に従って弓木城に入っています。
しかし、1582年9月、一色義定が宮津城内にて細川藤孝の手勢に誅殺されると、金谷義俊は石川城に戻って籠城しました。
すぐに細川家の有吉将監が攻めており、金谷伊豆守は討死し石川城は落城しています。
なお、、一色義定(一色義俊)の家臣である石川秀廉(石川次郎秀廉)、その子とされる石川秀門(石川左衛門尉秀門)と言う武将が、近くの伊久知城主になっていました。
しかし、石川と言う名を称していることから、石川城主の一色一族である可能性も捨てきれません。
そのため、天下の大泥棒、石川五右衛門の誕生地は、丹後・石川城(まぁ、城下と言う事)とする説もあります。
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正直に申し上げまして、近くに昔からお住まいの住民が、昔、城があったと認識している程度の超マイナーな城跡です。
石川城と言うと、どうしても、弘前の石川城のほうが圧倒的に有名ですし、恐らく、歴史に興味がない宮津の方は、ここに城があったなんてことは知らずに、毎日、麓の県道を往復していることでしょう。
しかし、以外にも、歴史的には重要な城です。
丹後・石川城に登城する場合には、登城口となる西禅寺の駐車場が利用できるようです。
この西禅寺がある場所は、恐らくは城主の館があったのでしょう。
本丸部までは約15分ほどの登りになる見込みです。
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