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三河・山中城とは
山中城は文字通り「山の中の城」を指す場合が多く、城名としては日本全国で見る事ができます。
中でも静岡県三島市にある山中城は障子掘などが有名で、日本100名城にも指定されている名城になりますが、三河にある山中城は北側には鎌倉街道(後の東海道)南側には鎌倉街道から分岐する吉良街道を見下ろす事ができる標高195mの医王山の山麓一帯を切り開いた要害の地に建てられており、愛知県下において多数存在する戦国山城の中でも最大級の規模を誇る山城です。
城の北側鎌倉街道沿いにある山中八幡宮の創建は朱鳥14年(699年)と伝わり、この地を治める山中光重という人物が宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎えて社を建てたのが始まりとされています。
山中八幡宮の敷地内には、永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆の戦いの中、戦いに敗れた徳川家康(とくがわ-いえやす)が洞窟の中に隠れ潜んだ「鳩ヶ窟(はとがくつ)」と呼ばれる洞窟があります。
一向一揆の追手が洞窟内の捜索に入ろうとした時、洞窟内から2羽の白い鳩が飛び立ったため、追手は「人のいる所に鳩がいる訳はない」と言って通りすぎたため、徳川家康は難を逃れました。
難を逃れた徳川家康は、背負っていた矢筒から矢を1本抜き出して地面に挿し、神前に開運を祈ったと伝わっており、本殿よりも大きく成長した開運竹を境内に見る事ができます。
後にこの洞窟は鳩ヶ窟、八幡宮山麓は御身隠山(おみかくしやま)と呼ばれるようになり、慶長8年(1603年)8月26日には徳川家康の朱印状で180石が寄進され、寛永11年(1634年)には徳川家光(とくがわ-いえみつ)が上洛する際に参拝しています。
歴史
南北朝時代、足利尊氏(あしかが-たかうじ)の股肱之臣として活躍する仁木義長(にき-よしなが)は九州に降り、菊池氏などと干戈を交えて南朝勢力の抑圧に終始します。
足利尊氏が室町幕府を開いて征夷大将軍になると、仁木義長は各地の守護職を歴任しますが、仁木氏の発祥地(現在の岡崎市北部)がある三河国の守護に任ぜられると、九州から西郷氏を呼び寄せて目代(守護代)に据え、大草(現在の岡崎市南部から幸田町一帯)を治めさせます。
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西郷氏は勢力を徐々に拡大していきますが、山間部の松平郷から平野部に勢力を拡大していく松平氏に対抗するため、当主の西郷頼嗣(さいごう-よりつぐ)は矢作川の支流である乙川の南岸に平岩城(明大寺古城)を築き、対岸の竜頭山にも砦(後の岡崎城)を築きます。
さらに、鎌倉街道を東に進んだ山中の地にも山中城を築き、矢作川と乙川、鎌倉街道と吉良街道がそれぞれ交わる交易の要を抑える事に成功しました。
これに対し、松平家三代当主である松平信光(まつだいらーのぶみつ)は文明3年(1471年)に安城城を攻略し支配下に治め、室町幕府と縁の深い西郷氏との対決に挑み、屈服させる事に成功しました。
西郷頼嗣は松平信光の五男松平光重(まつだいら-みつしげ)を婿に迎えて跡目を継がせ、自身は大草の地に隠棲します。
松平光重の跡は嫡子の松平親貞(まつだいら-ちかさだ)が継ぎますが、松平親貞には子供が無かったため、弟(西郷頼嗣の子と言う説も有)の松平信貞(まつだいら-のぶさだ)を養子に迎え、岡崎松平家三代目を継がせました。
当時、松平宗家の地位を築いていた岩津松平家は駿河の今川氏の武将である伊勢新九郎(いせ-しんくろう:後の北条早雲)によって岩津城は落城しますが、安城城の松平親忠(まつだいら-ちかただ)が援軍に駆け付けて追い払われますが、壊滅的な打撃を受けた岩津松平家に代わり松平親忠は宗家としての地位を継承する事になりました。
松平親忠の孫にあたる松平信忠(まつだいら-のぶただ)は宗家六代目を継ぎますが、暗愚と言われており嫡子の松平清康(まつだいら-きよやす)が弱冠14歳にして宗家七代目に就きます。
松平宗家(安城松平家)の家督相続問題を横目に見ながら、大草城と平岩城、山中城の三か所を拠点としてさらなる勢力拡大を目指す松平信貞は宗家との対立を深める事になって行きます。
大永4年(1524年)松平清康は大久保忠茂(おおくぼ-ただしげ)の進言を容れて、暴風雨の中、山中城を奇襲し城兵80人余りを討ち取って一夜にして陥落させました。
勝ち戦の勢いのまま平岩城に迫る松平清康の軍勢に対して対抗する術を失った松平信貞は平岩城を明け渡し、娘の於波留を松平清康に娶せて大草城へと隠棲します。
天文4年(1535年)森山崩れで松平清康が陣没すると、山中城は今川氏の支配する所となり、西三河各地を攻略する拠点の城として利用される事となり、天文17年(1548年)に起こった小豆坂の戦いでは今川軍の重要拠点の一つとして史料には医王山城と記載されています。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると、松平元康は生母於大の方が嫁いだ久松俊勝(ひさまつ-としかつ)と共に山中城と上ノ郷城を攻略し、西三河の支配権を確立させていきます。
永禄6年(1563年)三河一向一揆が起こると山中城は一揆側の拠点として占拠されますが、翌年の永禄7年(1564年)に酒井忠次(さかい-ただつぐ)が入城して再び松平氏の支配下となります。
余談になりますが、於波留の兄で松平信貞の跡を継いだ松平昌久(まつだいら-まさひさ)は、松平清康と松平広忠(まつだいら-ひろただ)松平元康(徳川家康)の三代に仕えていますが、三河一向一揆が起こると東条城に籠り反松平元康の立場として戦いを挑みますが、東条城が落城すると行方を晦ませたと伝わっています。
東条城は足利氏に縁の深い吉良氏が領する城ですから、当初は要害の山中城に籠った松平信貞が、反松平で思惑が一致した吉良氏の呼びかけで山中城を棄てて東条城へ移った可能性もあると思われます。
松平氏の支配下に置かれた山中城でしたが、天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い廃城となりました。
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交通アクセスと登城
推奨ルート:
※公共交通機関で訪問する場合、名古屋鉄道名電山中駅を下車する事になります。
※市民センター、山中城、山中八幡宮それぞれに駐車場がありますので、自家用車での訪問も可能です。
東部市民センター→(徒歩15分)→山中城→(徒歩20分)→山中八幡宮
国道1号線を渡った南側にある東部市民センターには山中城の模型が展示されており、縄張図も頂けるので登城前に立ち寄る事をお勧めします(月曜休)
山中城の登城口は2ヵ所あり、駐車場から西に進むと舞木口があります。
城内の目ぼしい個所には遊歩道が作られていますが、民間有志の方々が整備を行っているため、次期によっては藪に覆われている場合もあります。
曲輪や堀切、馬出しを経て二郭まで進むと視界が開けます。
本郭の周囲は土塁に囲まれ、城址碑が立てられており、眼下に吉良街道を見下ろす事ができます。
そのまま西に進むと、いくつもの腰曲輪や堀切の跡を通り、羽栗口まで降りる事ができます。
羽栗口から城の山麓沿いにある道を戻って再び舞木口に出た後は、山中小学校の南側にある信号交差点を左(北西)に曲がり、国道1号線と並行するように走る道の突き当りが山中八幡宮の入り口になります。
※この道路は対向車との行き違いが困難なため、自家用車で訪問する際は国道1号線まで出て西に進んだ方が良いでしょう。
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・東部市民センター
岡崎市山綱町天神2-9
・山中城駐車場
岡崎市羽栗町田中24
・山中八幡宮
岡崎市舞木町宮下8
鳩ヶ窟は境内の下に続いているようですが、入り口は小柄な人がやっと通れる程度の広さしかありません。
その他関連施設等
・平岩城(明大寺古城)
岡崎市上明大寺町
名古屋鉄道東岡崎駅の北側一帯に建てられた城。
開発時に発掘調査が行われましたが、遺構は残されていません。
東岡崎駅の東側に徳川家康像が建てられた際に、1Fの階段脇に看板が設置されました。
・大草城
額田郡幸田町大草字寺西
国道248号線に建つ正楽寺の境内に西郷稠頼(さいごう-つぎより:西郷頼嗣の父)の墓がある他、松平信貞まで四代の位牌が祀られています。
・守山城
名古屋市守山区市場4-22
宝勝寺とその北側部分が城跡です。
守山藤塚線脇に看板が立っており、そこから入り込んだ位置に城址碑が立てられている他、
守山図書館には城の模型が展示されています。
・東条城
西尾市吉良町駮馬字城山
城址公園として整備されていますが、写真にある模擬櫓等は老朽化のため2023年現在は撤去されています。
(寄稿)だい
・三河・牛久保城の解説~常在戦場(生きるか死ぬかの過酷な場所)
・三河・重原城の解説~黄金埋蔵伝説と天守閣予定地の碑
・三河・伊奈城の解説~徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の地
・愛知県「源頼朝」由来の地をめぐる~生誕地・熱田神宮周辺など
・三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~
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