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三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~

川尻城の看板

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三河・川尻城とは

愛知県新城市作手には、続百名城で有名な古宮城、三河奥平氏の本拠地だった亀山城など今でも遺構が残されている山城が数多くありますが、古宮城の北1km程の所にある川尻城も創造の森城山公園として整備されていながらも、土塁などの遺構も残る中世の山城です。

作手地区は南に進むと豊川の流れ沿いに長篠城野田城があり、西に行けば麻生城や日近城を経由して岡崎城を中心に矢作川流域に、東は鳳来山、北は菅沼城から設楽城と進み飯田に出るなど交通の要所にあり、川尻城は作手地区の最北端に位置する小山に建てられています。


〇城の写真

歴史

源平時代から奥三河には設楽氏、千秋氏、永江氏などの豪族が活躍していましたが、南北朝も終末を迎える天授年間(1375年~1380年)上野国に住んでいた奥平貞俊(おくだいら-さだとし)は、外戚の山崎高元(やまざき-たかもと)を頼って作手の地に移住してきました。

奥平氏が上野国(現在の群馬県)を去った原因には諸説あるようで、両毛(上野と下野)の地において新田氏の凋落が激しくなり、足利幕府の圧迫に堪え難くなったと言う説、家督上の争いから一時高野山に身を避けた後、三河に来たと言う説、上杉禅秀の乱によって故国を追われたと言う説などがあります。
また作手に来た人数に関しても『別本奥平系図』や『浪合記』では一族郎党を率いて来たとしている反面、『藩史』『重修家譜』では桜井刑部太夫ただ一人を連れて来たと記載されています。
ともあれ、始祖の地である上野国を追われ遠く三河山間部の地に落ち延びて再起を図ろうとした事に間違いはありません。


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作手に来た奥平貞俊は山崎高元の配慮で鴨ヶ谷の甘泉寺の山麓に館を構えます。
甘泉寺応安3年(1370年)9月に臨済正宗22世弥天永釈大和尚により開山された寺で、本尊は釈迦如来、作手三弘法の一つです。
境内には長篠城攻防戦で有名になった鳥居強右衛門(とりい-すねえもん)と作手出身だった夫人の墓がたてられており、その位牌も祀られています。

鳥居強右衛門の墓
○鳥居強右衛門の墓

甘泉寺に身を寄せた奥平貞俊は吏務の才能に優れていたようで、折から停滞していた事務処理を進め次第に周囲の人望を集めていき、土豪としての地歩を固めながら所領が数ヶ村を越えた応永年間(1394年~1428年)初期に川尻城を築いて本拠としました。

川尻城は作手平のほぼ中央に位置し、周囲を湿地帯に囲まれた標高540メートル・比高20メートル程の丘陵を切り開いて築かれた城です。
頂上の削平地は東西約70メートル、南北に約45メートル程の広さを持つ楕円形で、中央北側に接して一段高い櫓址があり、削平地の東縁には土塁。その下に二段の小郭が配されています。
現在は城の南側にある入口ですが、当時の大手門は西側にあったと考えられており、今も濠址らしい遺構が一部残っています。
明治年間までは門の敷石や堤塁らしいものがありましたが、村人が堀崩し持去ったと言う話のようです。
また田を隔てた南側の山裾にある小平地(畑)が城門の址だという伝承もあるようですが、当時は泥湿地が広がっていたため、城門と言うよりは水濠に隔てられた出丸のような物が存在していたと考える方が自然と思われます。


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川尻城の北側には広大な田園地帯が広がっているものの、不思議と城館と呼ばれるような遺構は存在しません。
天平年間の頃から作手地区は米福、荒原、本宮の三長者が支配をしており、中でも川尻城の南西を流れる姉川の対岸にあったとされる長者平村を中心に支配していた米福長者は三河三長者の一人と伝わっています。
作手歴史民俗資料館に展示されている資料には、奥平氏は米福長者の援助を受けて奥三河の豪族になったとの記載があり、米福長者の強大な支配力が作手一帯に及んでいた事を伺わせます。

川尻城を中心に勢力を拡大していく奥平氏は、応永31年(1424年)2km程南にある清岳を切り開き、新たに亀山城を築城。
ここを新たな本拠として奥三河一帯に勢力を伸ばして行く事になります。
その後、川尻城は亀山城の支城として夏山奥平氏が入り、作手の北側の守りを一手に引き受けていたと思われます。

交通アクセスと登城

国道301号線沿いにある道の駅つくで手作り村から北に進み、古宮城、作手歴史民俗資料館の脇を通り川尻のバス停を過ぎるとすぐ右側にポストが見えるので、その手前の小川に沿った細い道を東に進むと川尻城の登城口です。
登城口をそのまま通り過ぎすると城の東側に車10台程度が入る駐車場があり、城域一帯は公園として整備されています。


○公園の看板

登城口
○写真左側の道が登城口

登城口を登っていくと削平地に冠木門と看板が立てられています。


〇冠木門と看板

本郭一帯は削平されており、土塁や堀切の跡がのこされています。


〇土塁

その他関連施設等
・米福長者屋敷跡

米福長者屋敷
屋敷北東角にあたる場所。
写真中央に見える石垣の部分が土塁の残存と言われています。

(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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