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三河・本證寺(ほんしょうじ)とは
本證寺は山号を雲龍山と言い、愛知県安城市野寺にある真言宗大谷派の寺院ですが、周囲を土塁と二重の堀に囲まれた戦闘用施設でもあり、本證寺城と呼ばれる程に城郭としての機能を備えていました。
その遺構は現在でも良好な状態で残されている部分も多いため、城郭伽藍として全国的に見ても貴重な存在になっています。
○本證寺山門
本證寺は建永元年(1206年)頃、浄土真宗の開祖である親鸞の門侶慶円(きょうえん)によって創建されたと言われています。
本證寺の伝えによると、慶円は下野国小山城主である小山朝政(おやま-ともまさ)の次男にあたる人物の靭負兼光(ゆきえ-かねみつ)と言われており、比叡山延暦寺に登って慈鎮(じちん)の弟子となり性空(しょうくう)と号します。性空は建永元年(1206年)頃に自宅を喜捨して天台寺院としており、これが本證寺の起りとされます。
その後、性空は上洛途中の親鸞(しんらん)の説法を桑子(岡崎市大和町)明眼寺(みょうげんじ)柳堂で聞き、その弟子となって慶円と号し、浄土真宗の寺に改めたと言われます。
室町時代中期に入ると本願寺第8世法主の蓮如(れんにょ)の布教によって本證寺は本願寺派(いわゆる一向宗)に属して三河本願寺教団の中核として隆盛を極め、後に上宮寺(じょうぐうじ:岡崎市上佐々木)、勝鬘寺(しょうまんじ:岡崎市針崎)とともに三河三ヶ寺と呼ばれるようになりました。
○上宮寺
歴史
16世紀前半、本證寺の周囲には16世紀前半には今日まで一部が残る二重の堀と土塁が築かれて行き、城郭伽藍としての体裁が整っていきます。
さらには外堀内(寺内)は守護不入(治外法権と租税免除)の地と定められ、隆盛の一途を辿ります。
戦国時代に入ると、三河三ヶ寺(野寺本證寺、佐々木上宮寺、針先勝鬘寺)と一家衆の本宗寺(岡崎市土呂)の4ヶ寺は守護不入を利用し、商工業・運輸業で発展。その影響は農民や土豪などにも及び、強力な門徒集団が形成されていきます。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元(いまがわ-よしもと)が討ち取られます。
跡を継いだ今川氏真(いまがわ-うじざね)を見限り、織田信長(おだ-のぶなが)との同盟を成立させた松平元康(まつだいら-もとやす:後の徳川家康)は、西三河各地で戦いを開始します。
苦しみながらも西三河統一に向けて進んできた松平元康ですが、永禄5年(1562年)本證寺寺内に逃げ込んだ無法者を西尾城主の酒井正親(さかい-まさちか)が捕縛しようと軍勢を差し向けます。
しかし『不入』の特権を侵されたとして、蓮如の孫で本證寺10代の地位にあった空誓(くうせい)はこれに反発し、上宮寺や勝鬘寺に檄を発して松平元康を相手に戦いを挑みます。
後に武田信玄(たけだ-しんげん)の侵攻を迎え撃った『三方ヶ原の戦い』や、本能寺の変で織田信長が殺害された後、数十名の部下と共に命からがら三河まで戻った『伊賀越え』と並び徳川家康の三大危機に数えられる『三河一向一揆』の勃発です。
一向一揆の発端に関しては諸説あり、「天下のご意見番」として名高い大久保忠教(おおくぼ-ただたか)が著した『三河物語』は上記の本證寺寺内での無法者の捕縛を発端としていますが、『勝鬘寺文書』のなかの「永禄一揆由来」には、本證寺の寺内町に住む鳥居という商人が松平家康の家臣に恨まれ、米穀などをさんざんに蹴散らされたことが原因と記載がある他、別の説としては永禄6年(1563年)菅沼藤十郎定顕(すがぬま-とうじゅうろう-さだあき)という者が命を受けて佐崎村に砦を築き、上宮寺の兵糧米を強制的に徴収。
これは松平元康の父である松平広忠(まつだいら-ひろただ)が与えた「不入」という治外法権の特権を侵す行為のため、上宮寺は本證寺や勝鬘寺と結託して蜂起して菅沼定顕の屋敷を打ち壊して兵糧米や家財道具を奪い取り、事態の収拾に当たった西尾城主の酒井正親の使者までをも斬殺して大規模な一向一揆に発展したと言う説も残されています。
いずれにせよ、今川氏から独立を図り三河平定を目指して今川軍と東三河で戦闘を繰り広げている松平家康(永禄6年(1563年)に今川義元の偏諱である「元」の字を返上して、名を家康と改めています)にとって、地盤となる西三河での紛争は本意では無く、門徒衆との間に融和を図るべく岡崎城下にある専福寺の住職らを頼って調停を行いますが、永禄6年(1563年)に勝鬘寺の門徒宗が武装蜂起をして岡崎城を目指して進軍を開始。これに対し、岡崎城からは松平家康が自ら軍を率い、上和田の大久保党と共に出陣して一揆軍を迎撃します。
この他、松平一族の中でも力を持つ深溝城の松平伊忠(まつだいら-これただ)は、一揆方に与した夏目吉信(なつめ-よしのぶ)が築いた野場西城に攻撃を仕掛けますが、本證寺から大津吉明(おおつ-よしあき)・大津宗常(おおつ-むねつね)の兄弟らが援軍に駆け付け激戦を展開。
○野場西城
本多一族は門徒衆でしたが、本多忠勝や本多重次(ほんだ-しげつぐ)らは浄土宗に改宗し、土井の本多広孝(ほんだ-ひろたか)は嫡子の本多康重(ほんだ-やすしげ)を松平家康の元へ人質として送り出し、本宗寺に立て籠もった一揆軍と交戦を開始。
一族の中でも改宗を拒み一揆に与した本多正信(ほんだ-まさのぶ)は、岡崎城の北西に位置する上野城の酒井忠尚(さかい-ただなお)に従い、松平家康に反旗を翻して矢矧川を渡河して岩津城の脇を抜けて岡崎城へ向けて軍を南下させます。
酒井軍の南下を察知した岡崎衆は石川家成(いしかわ-いえなり)や本多忠勝(ほんだ-ただかつ)が兵を募り、酒井軍を急襲して辛うじて撃退する事に成功します。
○上野城
この時、本多忠勝は16歳でしたが、松平家康から拝領した全長4mを超す大槍「蜻蛉切り」を振り回して一揆衆をなぎ倒し、その後一揆軍は本多忠勝と蜻蛉切りを見ると戦場から退却していくようになったと言われています。
本多一族の大半が味方に付いたものの、東条城の東条吉良氏の他、後に徳川十六神将に数えられる渡辺守綱(わたなべ-もりつな)、同じく十六神将の蜂屋貞次(はちや-さだつぐ)ら後世に名を残す武将だけでなく、桜井松平氏や大草松平氏、松平家康の異母妹市場姫が嫁いでいた荒川義広(あらかわ-よしひろ)など松平一族の内部からもら一揆に参加する者もおり、松平宗家と各地で戦いを繰り広げます。
永禄7年(1564年)1月、野場西城に立て籠もっていた一揆軍の中から乙部八兵衛が深溝城の松平伊忠に内応したため野場西城は落城。一揆方の有力武将の一人である夏目吉信が捕縛されますが、乙部八兵衛や松平伊忠らの助命嘆願もあり、松平家康は夏目信吉を許し帰参させます。
余談にはなりますが、恩義を感じた夏目吉信は各地の戦場で活躍しますが、元亀3年(1573年)三方ヶ原の戦いで武田軍に追われた徳川家康の身代わりとなり戦死します。
夏目吉信の5男である夏目吉次(なつめ-よしつぐ)は同僚と諍いを起こして出奔していましたが、大阪夏の陣の後で徳川家康に呼び出され「今こうしていれるのもお前の父のおかげだ、感謝している」と礼を言われ、徳川秀忠の家臣に配されており、その血は明治の文豪夏目漱石まで繋がっていると伝わっています。
○夏目吉信の墓
野場西城を落城させた松平元康ですが、翌月の2月に入ると西尾城の兵糧が欠乏します。
岡崎城から兵糧を運び入れるには矢矧川を下るのが最短になりますが、その沿岸は上流より上宮寺、桜井城(桜井松平)、本證寺、八ッ面城(荒川氏)など一揆方の拠点が無数に存在するため、矢矧川を使っての兵糧運搬は困難と見た松平元康は刈谷城の水野信元(みずの-のぶもと)に援軍を要請し、岡崎城の近くで矢矧川を渡河した後、水野家のの勢力範囲を通りながら、西尾城の北西から回り込んで兵糧の運び入れに成功します。
西尾城を安定させた松平家康は、援軍の水野信元軍と共に北西にある八ッ面城に向けて軍勢を進め、負けたふりをして一揆軍をおびき出した後で反転攻勢をかけ荒川義広の軍勢を壊滅状態まで追い込みます。
大勝した松平・水野連合軍は西尾城へ引き上げようとしますが、八ッ面城攻撃の急報を受けた本證寺の僧で怪力無双として名高い空誓(くうせい)が鉄棒を振り回しながら一揆軍を率いて追撃してきたため乱戦となります。
しかし、兵力の差を埋める事はできず、重傷を負った円光寺(桜井)の順正(じゅんせい)は「我こそは本證寺の空誓」と大喝して腹をかき切った後に崖から飛び降りて自決したため一揆軍は敗退。この戦いを機に一揆側は劣勢に追い込まれて行く事になります。
同年の春に入ると一揆側からの降伏申し入れがあり、大久保氏の本拠に近い上和田の浄珠院で話し合いの場が持たれます。当初、松平元康は首謀者や有力武将を処刑する事を考えますが、調停の場を用意した大久保忠俊(おおくぼ-ただとし)は首謀者らを許して配下に置けば、今後の三河統一で反松平に周る各地の豪族達も従いやすくなると進言します。
松平家康がこの進言を受け入れたため一向一揆との和議が成立し、多くの武将が帰参して三河武士の結束は高まりますが、一向宗の恐ろしさを身に染みて感じた松平家康は、三河にある一向宗の寺院に改宗を迫り、本證寺や勝鬘寺、上宮寺などの有力寺院は改修を拒んだため僧侶を追放して伽藍を破却してゆきます。
一向宗側は、和議の条件「寺院や道場はもとの状態」に対しての違約であると抗議しますが、「もとの状態」は「寺が建つ前の元の野原の状態」と言う意味であり、これを拒んだ僧侶達こそ約定を違えていると言い放ち改修をしない一向宗の寺院の全てを破却したため、三河国は20年に渡って一向宗禁制の地となりました。
時は過ぎ、天正13年(1585年)徳川家康の叔母(生母である於大の方の妹)にあたり、石川家成の生母である妙春尼(みょうしゅんに)は一向宗の再興を願い出ます。
前年の天正12年(1584年)小牧長久手の戦い後、豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)と和議を結んでいた徳川家康でしたが、四国の長宗我部氏や北陸の佐々氏を降して大垣城に兵を集める豊臣方との間で緊迫する情勢の中で、地盤である西三河の安定を図る必要もあって一向宗の禁制を解いたため、本證寺は同じ場所に再建を始め、江戸時代の初めには現在の本堂も造営され、勝鬘寺・上宮寺とともに三河触頭三ヶ寺の一つとされた本證寺は最盛期に200を超える末寺を持ち、東本願寺の中本山的役割を果たしたと言われています。
○上宮寺境内に立つ妙春尼の看板
~交通アクセスと登城~
公共交通機関で訪問する場合は名古屋鉄道の南桜井駅から徒歩で約15分ですが、近隣には桜井城(桜井松平家の居城)の他、藤井城や木戸城(成瀬氏の居城)、小川城(石川氏の居城)などの城址が存在しているため、自家用車での訪問もお勧めです。
※本證寺の本堂や鼓櫓、南西の堀跡は随時見学する事ができますが、土塁等は年に数回開放される時しか見る事ができませんのでご注意ください。
○本堂
関連施設と近隣の城館
○勝鬘寺
岡崎市針崎町朱印地3
本堂前には碑が有り「永禄六年三河一向一揆戦陣跡」と記載されている他、寺の西側にある低地は堀跡と言われています。
○上宮寺
岡崎市上佐々木町梅ノ木34
本堂は昭和63年に焼失しており、当時の面影は残されていません。
○上野城
豊田市上郷町上郷町薮間17-8
上野護国神社境内が城址で、徳川四天王の一人である榊原康政誕生地の碑も立てられています。
○野場西城
額田郡幸田町野場字城
城址は民家となっており、敷地手前に土塁の一部が残されています。
※写真は県道305号須美福岡線の脇に立つ案内看板
○桜井城
安城市桜井町城阿原
城山公園内に城址碑が立てられていますが、実際には公園から北西の位置にあったとされています。
○小川城
安城市小川町志茂331
本城公園の東屋に看板が取り付けられています。
〇木戸城
安城市木戸町東屋敷
春日神社の入り口に看板が立てられており、西側の斜面は土塁跡とも言われています。
(寄稿)だい
・三河・伊奈城の解説~徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の地
・愛知県「源頼朝」由来の地をめぐる~生誕地・熱田神宮周辺など
・三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~
・三河・岡城の解説~若き頃の徳川家康・城攻めに苦心惨憺
・本證寺・空誓上人のわかりやすい解説【どうする家康】三河一向一揆の中心になった城郭伽藍寺院
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