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上野上村城(三河・上野城)の解説「戸田宗光」が築城とも~酒井忠尚の本拠地と榊原康政誕生地

三河・上野上村城

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三河・上野上村城

三河・上野上村城(うえのかみむらじょう)は愛知県豊田市上郷町薮間にある平城で、単純に三河・上野城と記載することもある。
もともと上野荘は足利氏庶流上野氏の本貫地だ。
鎌倉時代の上野氏館がどこにあったのか?は定かではないが、上野上村城の場所だった可能性はある。

三河・上野上村城

このように最初の築城は不明だが室町時代の文安年間(1444年〜1449年)頃に、戸田宗光(戸田弾正左衛門宗光)が築いたとされる。
この戸田氏は源義家(八幡太郎義家)の子である源義隆を祖とする森氏の一族で、鎌倉幕府御家人・森頼定の10男であめ戸田信義を祖とする。
森氏の子孫には織田信長の家臣である森可成森長可、森成利、森忠政もいるため、親戚と言えよう。

戸田宗光

戸田宗光(とだ-むねみつ)室町時代中期の武将で1439年頃に生まれたとされ、戸田弾正左衛門尉、戸田弾正左衛門、戸田弾正左衛門尉、戸田全久入道などとも記述されることがある。
父は戸田実光(正親町三条家からの養子)または戸田綱光?と考えられ、母は不詳。
妻は松平信光の娘で、子に戸田憲光、戸田家光がいる。

三河国碧海郡上野は京の正親町家の領地だったようで、室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官である戸田宗光は、三河国守護の細川成之から三河国額田郡で狼藉を働く者の鎮圧にあたったようで、代官として移り住んだ模様だ。

三河・上野上村城

妻の実家である松平信光は深溝城で大庭兄弟を討ち、戸田宗光は額田郡大平で丸山父子兄弟らを討伐し、首級を京都に送った。

応仁の乱(1467年~1477年)となると三河渥美郡の分郡守護代である一色政照は軍勢を率い京にて西軍として戦った。
東軍である戸田宗光はこの隙を突いて1470年頃に河和城を手に入れ渥美半島への足掛かりを得たと考えられる。
そして、1475年には渥美半島に進出しており、三河・大津城(高縄城)を築いた。
そして、郡代・一色政照を隠居に追い込むと1479年には三河・田原城を築き、三河湾の制海権を掌握した。
こうして勢力をつけると、1493年、豊橋に二連木城を築城して移ると、田原城には子の戸田憲光を残し戸田氏は渥美郡完全制圧を図った。
ただし、今橋城(三河・吉田城)の牧野古白(牧野成時)などとは長く抗争が続いたようだ。
1508年、戸田宗光は死去。

<注釈> 2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、戸田宗光が裏切って幼い竹千代を織田家に渡したと言う事になっているが、戸田宗光は1508年に死去していることから、3代あとの戸田康光(初名・戸田宗光)が竹千代を織田信秀に渡したと言う事になる。


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その後、戸田康光の頃、三河・岡崎城松平清康に臣従。
平氏今川義元に臣従すると戸田氏も今川勢となった。
1560年、桶狭間の戦いのあと、戸田氏は三河一向一揆の際に松平元康(徳川家康)に味方し一揆鎮圧に功績もあった。
そのため、戸田重貞は松平元康から3000貫の地を与えられ、松平氏の称号も得て戸田宗家16代当主は松平康長と称している。

三河・上野上村城

話を戻すと戸田氏が渥美半島に移ったあと、三河・上野上村城の城主は変わったようで経緯は不明だが阿部孫次郎が、上村城主となっている。
1493年、阿部孫次郎は三河・金谷城(拳母城)の中条秀章、寺部城の鈴木氏、伊保城の三宅氏、八草城の那須氏らと連合し、安祥城松平親忠井田野の戦いとなった。
しかし、敗戦すると戦功があった三河・桜井城の松平信定・松平清定の父子が上野上村城に入っている。(諸説あり)

松代信定と松平清定は、何度も松平宗家に反抗し1545年広畔畷の戦いのあと、松平宗家の重臣・酒井忠尚(酒井将監忠尚)が三河・上野上村城主となったとみられる。

酒井忠尚

将監と呼ばれた酒井忠尚(さかい ただなお)は、戦国時代の武将。
酒井康忠の子で、酒井忠次の叔父にあたるとされるが関係などは諸説あり不詳である。

本多俊正(本多正信の父)、榊原長政など。

1543年、酒井忠尚は三河・山崎城の三木・松平信孝や、大和田城の松平忠倫とともに尾張の織田信秀と通じている。
その後、1545年、織田勢が攻めると松平清定・松平広忠に代わって、織田寄りの酒井将監忠尚が三河・上野上村城主となった
そして、1546年、松平広忠に三河・上野上村城を攻められ、今川義元の仲裁で酒井忠尚は和解。
これら一連の戦いは安祥城付近で発生したた「安城合戦」とも言う。
松平宗家の地位は完全に凋落し今川義元に従属したため、酒井忠尚は半独立した状態になったようだ。
このように松平家の家臣ではあるがある程度の独自性を有していたようだが、織田勢・松平勢・今川勢の攻撃も何回かあったようだ。

1548年には家来の榊原長政の次男・榊原康政が三河・上野城にて誕生している。

下記は榊原康政誕生地の石碑。

榊原康政誕生地の石碑

榊原康政は13歳のときに徳川家康の小姓となり、のち徳川四天王のひとりへと成長した。
<注釈> 徳川四天王は榊原康政・酒井忠次・本多忠勝井伊直政

1549年に松平広忠が死去すると今川勢が安祥城を攻略し天野景泰井伊直盛らを城番として配置。
そのため織田氏に与していた酒井忠尚の三河・上野城も今川勢の手に落ち、翌年には刈谷城も今川勢の支配となっている。

1557年、酒井忠尚は浄妙寺に上和田天白を与える安堵状を出している。

桶狭間の戦いのあと、三河・岡崎城に徳川家康が復帰すると酒井忠尚は味方。
1601年の西三河統一においては、三河・東条城攻めにも参加した。

しかし、永禄6年(1563年)に三河一向一揆に荷担したともされ、最終的には徳川家康に対抗した。
酒井忠尚(酒井将監)が一揆側の中心人物だったと見る説もあるが、単純な謀反だとする見方もある。
しかし、三河一向一揆が鎮圧されたあとも戦った節があるが、今川氏真に内通すると家来らが徳川家康に臣従したため立ち行かなって駿河へ逃れており、その後は行方不明である。

そのあとは、三河・岡崎城に入った石川数正の支配下となったようで、上野七人衆と呼ばれた代官が配置されたようだ。


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ちょっと南の方に行くと、内藤清長が築いたと言う上野下村城跡もあるようで、そっちのほうにも榊原康政誕生地の石碑がある模様。

交通アクセス

三河・上野上村城への行き方としては三河上郷から550m、徒歩10分と近い。
駐車場だが上郷区民会館の北側にある上郷護国神社の鳥居を入ると駐車スペースがあるので、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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