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瀬名一秀(今川陸奥守一秀)とは
瀬名一秀(今川陸奥守一秀)は、室町時代後期の武将で1423年に生まれました。
父は遠江・今川氏6代目当主・今川貞延(堀越貞延)で、母は不詳、弟に堀越貞基がいます。
1474年、足利一門・今川家の宗家である駿河・今川氏の今川義忠に従っていた父・今川貞延(堀越貞延)は、遠江守護(越前守護・尾張守護)・斯波義廉との争いで討死したとされます。
このとき、堀越の海蔵寺にて僧侶となっていた今川一秀(睡足軒一秀)は、還俗して家督を相続しました。
宗家である駿河の今川義忠が1476年に、塩買坂の戦いにて横地城と勝間田城の残党に討たれます。
そして、幼くして宗家の家督を継いだ龍王丸(今川氏親)の補佐役となった今川一秀は、駿河国瀬名村(静岡県静岡市葵区瀬名)に移りました。
瀬名郷では、瀬名館や瀬名砦を築いて、瀬名一秀と呼ばれ瀬名氏の祖となりました。
一方で、今川氏親の母・北川殿は、弟・伊勢盛時を駿河に呼んで、小鹿範満派との家督争いを有利に進めました。
1488年には、瀬名氏の菩提寺として光鏡院も建立しました。
曹洞宗の寺であり、開山は恵雲です。
弟は遠江・堀越城に居を構えたので堀越貞基と言う事になります。
のち、瀬名一秀は遠江・二俣城主にもなりました。
1503年、今川陸奥守一秀(瀬名一秀)は死去。
瀬名氏の家督は嫡男・瀬名氏貞が継いで、花倉の乱では今川義元に味方しています。
3代・瀬名氏俊は今川氏親の娘を妻にしており、1560年、桶狭間の戦いにて大高城を守っています。
下記は桶狭間にある、瀬名氏俊陣跡です。
その瀬名氏俊の弟・瀬名義広は、焼津の花沢城主・関口氏禄の養子になっており、今川義元の妹(井伊直平の娘?)との間に築山殿をもうけました。
築山殿は、1557年に徳川家康の正室となりますが、瀬名姫とも呼ばれています。
駿府から移った三河・岡崎城にて北側の「築山」に造られた御殿を与えられると「築山御前」と呼ばれました。
瀬名姫は1559年に松平信康、1560年に亀姫を産んでいます。
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瀬名砦
瀬名氏は4代・瀬名氏詮と続きましたが、今川氏が没落すると瀬名砦も武田勢の攻撃を受けたとされます。
そして、瀬名氏詮は朝比奈信置や葛山氏元らと武田信玄に降伏しました。
なお、瀬名館も瀬名砦も正確な場所は不明です。
光鏡院の背後の山が、瀬名砦だったともされます。
瀬名館は、西奈図書館の西側一帯が館だったともされます。
<注釈> 西奈は、今では「にしな」と呼びますが、古くは「せな」と呼ばれていたようです。
交通アクセス
光鏡院への行き方ですが、駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしています。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
梶原景時の最後の地「梶原山」も背後の山です。
・築山殿は悪女だったのか?築山御前が殺害された本当の理由とは
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